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●読書メモ『存在と時間』

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)
マルティン ハイデッガー Martin Heidegger 細谷 貞雄
筑摩書房 (1994/06)
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 私たちは、生まれようと思って生まれてきたのではありません。
 頼んでもいないのに、気がついたらこの世に存在しているのです。どんな時代が好きか、どの家がよいか、どういう人間として生を受けたいか、そんな希望は一切聞いてもらえず無理矢理、人生の荒海に投げ込まれてしまったのです。

 太平洋の真ん中に投げ込まれたら、とにかく泳ぐしかないように、生まれてきたからには、とにかく生きるしかありません。こういう私たちの存在を、ハイデガーは「とにかくあるし、ないわけにはいかない」と表現します。

 自分がどこから来たのかも、どこへ向かって行くのかも、全く分かりませんが、とにかく私は人生という海に投げ込まれてしまったのです。これをハイデガーは「被投性」と呼んでいます。

●同293-294頁より抜粋
 ただ「とにかくある」という事実だけが現れて、どこからとどこへとは暗やみに包まれている。(中略)このようにそれの由来と帰趣については暗やみに包まれていて、それだけはいよいよ露骨に開示されている現存在の存在性格──この《とにかくある》という事実を、われわれはこの存在者の、その現のなかへの被投性(Geworfenheit)となづける。(引用終わり)

 海に投げ込まれたら、どこかへ向かって泳がねばなりませんし、飛び立った飛行機は、どこかへ向かって飛んで行かなければなりません。

 気がついたら人生の海に投げ込まれた(被投性)のが私であると同時に、とにかく存在している以上、どこかへ向かって飛んで行かねばならない(企投)のが私ですので、ハイデガーは人間は「被投的企投」というあり方をしていると言っています。

 私はこれから、どこに向かって泳げばよいのでしょうか。
 これが『愛と哲学と自分探し』のテーマです。

●読書メモ『実存主義とは何か』(その1)

実存主義とは何か
実存主義とは何か
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J‐P・サルトル 伊吹 武彦
人文書院 (1996/02)
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「生きる」ということは、昨日から今日、今日から明日へと、どこかへ向かって歩くことであり、泳ぐことであり、飛んで行くことです。
 サルトルは、人間はただそこに存在するだけの石ころと違って、自ら飛んで行く方向を決める(=自らを投企する)ものであり、だから人間は尊厳なのだといいます。

 自分が未来、どこに向かうか決めるのは自分です。私の人生を勝手に決めてしまう「神」を、無神論者サルトルは断固否定します。神であろうと遺伝子であろうと、なにものも私の人生を決定することはできません。
 私の人生を決めるのは私です。
 私たちはみな、自由なのです。

 しかしサルトルは、この自由を「刑罰」とよんでいます。(続く)

●同42-43頁より抜粋
 人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。以上が実存主義の第一原理なのである。これがまたいわゆる主体性であり、まさしくそのような名で世人がわれわれに非難しているものなのである。
 しかしわれわれがそれによって意味するのは、人間は石ころや机よりも尊厳であるということ以外にはない。
 というのは、われわれは人間がまず先に実存するものだということ、すなわち人間はまず、未来にむかってみずからを投げるものであり、未来のなかにみずからを投企することを意識するものであることをいおうとするものだからである。
 人間は苔や腐蝕物やカリフラワーでなく、まず第一に、主体的に自らを生きる投企なのである。(引用終わり)

●読書メモ『実存主義とは何か』(その2)

実存主義とは何か
実存主義とは何か
posted with amazlet on 08.03.04
J‐P・サルトル 伊吹 武彦
人文書院 (1996/02)
売り上げランキング: 150038

 自分が未来、どこに向かうか決めるのは自分です。私の人生をあらかじめ決めてしまう「神」を、無神論者サルトルは断固否定します。神であろうと遺伝子であろうと、なにものも私の人生を決定することはできません。
 私の人生を作るのは私です。
 私たちはみな、自由なのです。

 しかし、自由であるが故に、私たちは自分がどこに向かって生きるかという、人生最大の問題に自己責任で取り組まねばなりません。
 これほどの重荷があるでしょうか。これをサルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と表現しています。

●同51頁より抜粋
 そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身をつくったのではないからであり、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界のなかに投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。(中略)
 したがって実存主義者は、人間はなんのよりどころもなくなんの助けもなく、刻々に人間をつくりだすという刑罰に処せられているのだと考える。(引用終わり)

●読書メモ『カラマーゾフの兄弟』

カラマーゾフの兄弟 上   新潮文庫 ト 1-9
ドストエフスキー 原 卓也
新潮社 (1978/07)
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『カラマーゾフの兄弟』に登場するイワン・カラマーゾフが語る叙事詩「大審問官」は、ドストエフスキー全作品の白眉のなかの白眉と言われます。

 イワンの作った物語の舞台は、激しい異端審問の炎が荒れ狂う十六世紀。大審問官によって異教徒百人が火あぶりにされたばかりの広場に、無言のキリストが登場します。それを発見した大審問官は、すぐさまキリストを牢獄に入れ、なぜお前は人間に自由意思を与えて、途方もない重荷を背負わせたのかと責めます。

 人間にとって、自分の人生を何にかけるか、何のために生きるかを決めるほど大変な選択はありません。これほどやっかいな悩みはないのです。

●同488頁より抜粋
 その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。(引用終わり)

「人はパンのみにて生きるにあらず」で、人間は単に生きるだけの人生には耐えられません。たとえパンに囲まれていても、「何のために生きるか」が分からなければ、人は死を選ぶのです。

●同489頁より抜粋
 なにしろ、人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。(引用終わり)

 何のために生きるかハッキリしなければ、人間は生きてゆけませんが、生きる意味を自分で探すのは、かよわい人間には恐るべき難問です。だから自由ほど魅力的なものはありませんが、同時にこれほど苦痛なこともありません。大審問官の次の言葉は、よく知られています。

●同486頁より抜粋
 人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった(引用終わり)

「何のために生きるか」を考えないようにして、真に自由な人生を放棄する人がいるのはなぜか、ドストエフスキーは人間心理の奥底を暴いています。

●読書メモ『若きウェルテルの悩み』

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)
ゲーテ 高橋 義孝
新潮社 (1951/02)
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 私たちには、さまざまな欲求があります。お金が欲しい、出世したい、恋人、大きな家、いい車……。しかし、何のためにそれらを手に入れるのでしょうか。何かに「あやつられている」だけだとゲーテはいいます。

●15-16頁より抜粋
 子供というものは自己の欲求の拠ってきたる所以を知らぬとおっしゃるのだが、大人だってそうじゃないか。子供たちと同じにこの地上をよちよち歩きまわってさ、どこからやって来てどこへ往くのかを知りはしないし、本当の目的に従って行動しもしないし、ビスケットやお菓子や鞭であやつられているわけなんだが、不思議だね、誰もそういう実情を信じたがらない。ところが、こんなにはっきりしていることはないじゃないか。(引用終わり)


●読書メモ『自殺について』

自殺について 他四篇 (岩波文庫)
ショウペンハウエル Arthur Schopenhauer 斎藤 信治
岩波書店 (1979/01)
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 ショーペンハウエルは、人間を動かしているのは、ようするに食欲と性欲だといっています。何か加えるとすれば、「退屈」です。
 人間は生きるために働き、恋人を見つけ結婚し、子育てに苦労しています。つらい毎日の中でたまに余裕ができると、たちまち退屈になり、せっかく自由に使える時間を、ヒマつぶしで殺してしまうのです。


●36頁より抜粋
 それにしても、動物と人間の世界にかくも大げさで複雑で休みのない運動を引き起こしかつはそれを回転し続けているゆえんのものが、飢餓と性欲という二つの単純なばね仕掛であろうとは、まことに驚嘆のほかはない。もっともほかになお退屈というやつが少しばかりこの二者のお手伝いをしているのではあるが、いずれもこれらのものが、多彩な人形芝居を操るかくも精巧な機械の原動力の提供者としてけっこう間にあっているという次第なのだ。(引用終わり)

 恋する男は、彼女こそ人生の最大事と確信し、己のすべてを懸けます。まんまと遺伝子に操られていたと気づくのは、ついにベッドに入った時なのかも知れません。

●90頁より抜粋
 一体ひとびとは、「交合の直後に悪魔のたか笑いがきこえてくる」ということに気づかなかったであろうか。(引用終わり)

 

●読書メモ『物の本質について』

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)
ルクレーティウス 樋口 勝彦
岩波書店 (1961/08)
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 私たちは、恋人が欲しいとか、マイホームが欲しいとか、何か欲しいものができると、それがとても手に入らない間だけは、他の何よりも素晴らしく見えます。
 ところが望みをかなえると、今度は別のものが欲しくなります。こうして私たちは、常に不満を抱えたまま同じ輪の中を回り続けるのです。
 そして「生きていてよかった」という歓喜のないまま、変わりばえのしない毎日の繰り返しで一生を終わるのだと、二千年前のローマの哲学詩人ルクレチウスは言っています。


●157頁より抜粋
 我々が動き回っているのも、生存しているのも、常に同じ埒内に在るのであって、生きているからといってその為に新たな喜びが作り得られるわけのものではない。
 ただ、渇望するあこがれは、とても達せられないうちは、これが他の何物よりも勝れたものででもあるかのように見えるに過ぎない。
 その渇望も、いったん達してしまえば、またその後から別なものを我々は渇望する(引用終わり)

 

●読書メモ『悦ばしき知識』(その2)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)
フリードリッヒ ニーチェ Friedrich Nietzsche 信太 正三
筑摩書房 (1993/07)

 ニーチェは十九世紀後半のドイツの思想家です。二十四歳という異例の若さで大学教授になったものの、病気がちだったニーチェは、頭痛と視力低下に悩まされ、三十五歳で大学を去りました。療病生活をしながら著作に専念していましたが、十年後、精神に変調をきたし、広場で倒れているところを発見されます。しかし、二日間のこん睡から目覚めたニーチェは、もはやニーチェではありませんでした。崩壊した魂は二度と戻らず、ニーチェは五十六歳で死を迎え、その翌年に二十世紀が始まります。「私が語るのは、次の二世紀の物語だ」と、来るべき時代を予言していたニーチェの透徹した思索は、現代思想にきわめて大きな影響を与えました。
 ニーチェは、「神は死んだ」と宣言したことで有名です。キリスト教会が絶対的な支配力を持っていた中世が幕を閉じると、人びとは何ごとも理性の光に照らして考えるようになり、神を無批判に信じる時代は終わりました。ヨーロッパ文明の土台であり、最高の価値であった神を、われわれ近代人が殺したのです。ニーチェによれば、人類の成し遂げたことで、これ以上偉大なことはありませんでした。それをニーチェは、刺激的な表現で、こう書いています。

●同書220頁より抜粋
「神は死んだ! 神は死んだままだ! それも、おれたちが神を殺したのだ! 殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ? 世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、──おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ? どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?(中略)これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった──そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」(『悦ばしき知識』)(引用終わり)

 人びとが神を信じなくなったのは、ニーチェよりも百年も二百年も前のことなのですから、とりたてて「神は死んだ」などと言う必要はないはずです。まして、最初からキリスト教を信じていなかった日本人には、「神は死んだ」という言葉は、まったく関係がないように思えます。しかし、ニーチェがいう「神」は、そんな単純なものではありません。
 ニーチェが「神」と言ったのは、「何のために?」の答えだったのです。だから「神は死んだ」ということは、「何のために?」の答えがなくなってしまった、ということです。例をあげれば、次のような問いに、根拠を持って答えることができなくなってしまった、ということです。

 どうして人を殺してはいけないのか。
 なぜ、盗んではならないのか。
 どうして、真面目に働かなければならないのか。
 なぜ、他人に親切にしなければならないのか。

 もはや、神が禁じているからとか、神が望んでいるから、という解答は許されません。「何のために?」の答えを持たない私たちは、なぜ勉強するのか、なぜ働くのか、何のために苦労して生きるのか、まったくわからなくなってしまったのです。
 かつて価値があると思われていたことが、すべて意味を失い、人生に意味も目的も無い時代(ニヒリズムといいます)が始まったのです。これからニヒリズムが到来するだろうという、ニーチェの予言は的中しました。
 敗戦直後の日本には、毎日の生活に「豊かな暮らしを築く」という明確な目標がありました。「何のために」辛抱して働くのか、目的は明らかでした。
 豊かな社会が実現したあとも、景気が上り調子の間は、「何のために」の答えがありました。何のために勉強するのか聞かれたら、「勉強すればいい大学に入って、いい大学に入ったらいい会社に入って、いい会社に入ったらステキな人と結婚して幸せになれるんだよ」と答えればよかったのです。そんな超論理がまかり通っていたとは、平成に生まれた世代には信じられないでしょう。しかし、「学歴社会」という、誰もが忘れてしまった言葉が、親の期待とともに重くのしかかっていた時代があったのです。
 終身雇用が保証されていたころは、会社に尽くしていれば、生涯面倒を見てもらえますから、働く目的は明確でした。家庭を守る主婦も、夫を支えていれば、夫は年功序列で給料が上がるので、家事に意味と充実を感じることができました。
 しかし、バブルの崩壊とともに、「何のため」の答えは崩れ去ります。能力主義と自己責任の現代では、二十年、三十年と会社につくしても、いつリストラにあうかわかりませんし、優良な企業に就職できても、いつ経営が悪化して倒産するかしれません。
 勉強や仕事で頑張っても「ごほうび」がないことは、小学生でもわかります。「何のために、勉強しなければならないの?」と聞かれたら、どう答えればよいでしょうか。
「わからないことを勉強すると、わからないことが増えていくからだよ」
「もっとよい社会にするためよ」
「仕事をするための基礎なんだよ」
「勉強しなかったら、成長しないよ」
「苦しいことに打ち勝つ力をつけるためだよ」
「知らなかったことを知るのは、楽しいでしょう?」
 これらの言葉に、根拠も説得力もないことは、ニーチェの本など読まなくても、今の子どもは体で知っています。
「何のために」の答えがない、ニヒリズムの時代が到来したのです。
 日本の自殺者が増えているのは、不況が原因ともいわれていますが、それが直接の原因ではないでしょう。事業に失敗したり、失業したりして、生活が苦しくなったといっても、自殺するほどの苦しみではないはずです。もっと困窮していても自殺しないで生きている人は、世界には何億、何十億といるからです。
 問題なのは、それまで信じていたことがウソだと知らされ、「何のため」の人生かが、わからなくなったことなのです。これから「何のため」に生きなければならないのか、苦労する意味がわからなくなったことが、人間を徹底的に打ちのめすのです。
 人間が一番必要としているのは、生きる意味です。これを理解しない人は、「不景気だからといって、死ぬことはないのに」といぶかりますが、人生の目的がわからない苦しみは、自殺せずにおれないほどの苦しみなのです。
 苦しんでいるのは、子どもも同じです。学校に行く意味も、勉強する目的もわからないのに、「ゲームばっかりしてないで、勉強しなさい」「頑張りなさい」といわれたら、どんなストレスがたまるか、想像に余ります。真面目な子ほどキレて暴走するのは、無理からぬことではないでしょうか。
 日本では、仕事も進学もしない「ニート」といわれる若者が、七十万人いるともいわれ、社会問題になっています。しかし働く意味がわからない彼らに、ただ「働け、働け」とムチうてば、ますます引きこもらせるだけでしょう。
 生きる目的が明確になってこそ、「仕事も勉強も、健康管理も、このためだ」と、生きる力がわいてくるのです。
 神が死んだニヒリズムの現代は、すべての人が「自分探し」=「生きる目的探し」をしなければならないのです。

 

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