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●映画の部屋

『マトリックス』(その1)
『マトリックス』(その2)

■映画『マトリックス』(その1)

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■『マトリックス』鑑賞メモ①──人生に、何かおかしなところはありませんか?

 主人公ネオが、モーフィアスに初めてあった場面で、モーフィアスがネオに、こう言います。

「君がここに来たのは、何かを知っているからだ。説明はできないが、君はそれを感じている。今までずっと感じてきたものだ。この世は、どこかおかしい。それが何かは分からないが、事実存在している。まるで心に破片が引っかかっているようで、頭がヘンになりそうだ。そんな感じがするから、私の所へ来たのだろう」

 人生に、何か疑問を感じないでしょうか?
 このまま一生終わって悔いは無いでしょうか?

 何か気になる、私を不安にさせる、イラつかせる、正体不明のトゲが心にささっていませんか?

 今の人生は、何かがおかしいと気づきませんか。

 人生に問題があると感じた人は、大切なことが見えた人だとウィトゲンシュタインは『反哲学的断章』で言っています。

■映画『マトリックス』(その2)

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■『マトリックス』鑑賞メモ②──人間はウイルス?

『マトリックス』の中に、こんなセリフがあります。


人間は、本当は哺乳類ではなかったのだ。地球のあらゆる哺乳類は本能的に、環境に応じた増え方をする。だが、人間は違う。人間は行くさきざきで増え続け、資源を食いつぶすまで増殖する。生き延びるには、新しい土地に拡散するしかない。ところで、もう一つ、同じ型の生物がいる。わかるか? 〝ウイルス〟だ。人類は、地球をむしばむ病気だ、癌なのだ。


 最も高等な人間が、最も下等なウイルスと同類だというのは、本当でしょうか。

 そもそもウイルスとは何なのかといいますと、〝設計図〟です。家屋の設計図には、「こういう家を建てなさい」という指示が、船の設計図ならば「こういう船を造りなさい」という手順が書いてあります。

 では、ウイルスは何の設計図かといいますと、少しややこしいですが、「この設計図を、もう一枚作りなさい」と書いてある設計図です。家とか船とか、何かを作るための設計図ではありません。「私をコピーしなさい」というだけの、なんの意味も目的もない、ただ増えるために増える、設計図なのです。

 ウイルスは、例えるならば「不幸の手紙」です。「この手紙を受け取ったら、この文章を写して、二人の人に送りなさい。そうしないと、たたりがあります」という手紙が届いたとします。一人が二人に送ると、今度はその二人から四人に、その四人から八人にコピーされます。これが十回繰り返されれば千通に、二十回で百万通になります。

 実際は、そんな手紙があっても、わざわざ書き写して投函する人は、ほとんどいませんから、何百通になることはありません。それと同じで、設計図そのものは、恐ろしくも、何ともないのです。いくら設計図があっても、設計図を見て理解し、組み立てる作業員や、原料がなければ、何も作られないからです。ウイルスは設計図にすぎませんから、ウイルス自身には、増える力はありません。

 ところが、ウイルスが動物の体内に入ると、話は変わります。体には免疫という防御システムがありますので、ウイルスがもぐり込もうとしても、「おや、ヘンな設計図が入ってきたぞ! こんなものは捨ててしまえ!」と、破り捨てます。しかし、抵抗力が弱まっていたり、防御壁をすり抜ける巧妙なウイルスがいると、侵入されてしまいます。

 もしウイルスが体内に入りますと、動物の体は大工場のようなものですから、作業員も原料もふんだんにあります。そのため、この迷惑な設計図(=ウイルス)にしたがって、作らなくてもよい設計図(=ウイルス)を作ってしまいます。

 そうなると、たいへんです。最初は一枚の設計図が紛れ込んだだけでも、もう一つ設計図をコピーしてしまうと、二枚の設計図になります。二枚の設計図にしたがって、二個所でコピーされるので、四枚になります。設計図はネズミ算式に増えて、しまいには体じゅうに、「この設計図(=ウイルス)をコピーせよ」という設計図があふれて、ウイルスが爆発的に増えてしまうのです。ウイルスは、自分は何もしないのに、寄生した動物の力で増殖する、ずるい存在です。

 ウイルスの恐ろしいところは、二倍、二倍と、ネズミ算式に増殖することです。一個のウイルスが、三十回の複製で十億個に、五十回で千兆個になります。このウイルスが、のどに炎症を引き起こすと咳が出て、ウイルスは新しい体に乗り移り、そこでまた爆発的に増えるのです。

 さて、ここで気味の悪い想像をしていただきます。長さ二メートルのウイルスがいたとします。これだけでも〝ギャー〟ですが、それがどんどん増殖して、六十兆個になったとします。これは全部あわせると、地球を四百万周する長さです。それらが合体した怪物があなたの前に現れたら、どうしますか? 〝どひゃー〟といいたくなりますが、実は、その化け物こそ人間なのです。人間の「体」は、見方によっては、ウイルスの共同体なのです。(ここでいうウイルスとは、「遺伝子」とか「染色体」とよばれているものです)

 成人男性の体は、六十兆個の細胞からできています。細胞というのは、生物の体を作りあげるレンガのようなもので、中心には「遺伝子」という名前の設計図が入っています。細胞には、核となる設計図の他に、設計図を解読する作業員や、設計図をコピーするのに必要な原料(紙やインクにあたるもの)などが入っています。

 設計図だけのウイルスと違って、細胞は、設計図と作業員や材料がセットになっていますから、自分で自分の分身を作ることができます。ウイルスは、ただの設計図ですから、動くことも働くこともできません。しかし細胞は「生きて」いますので、自分で栄養を取りこんで、みずから材料や燃料を調達して、自分の力で、どんどん増えてゆきます。

 アメーバのように、一つの細胞でできている生物は、単細胞生物といわれますし、たくさんの細胞からできていれば、多細胞生物とよばれます。しかし、細胞の中で一番大事なのは、中心にある「設計図」ですから、動物は「設計図」が合体したロボットだといってもよいのです。「私の体」も、六十兆のウイルスが、一糸乱れぬ連係プレーで動いている共同体なのです。

「えー、私ってインフルエンザウイルスと変わらないの?」と思う人があるかもしれません。私の体を構成するウイルスと、インフルエンザウイルスとの違いは、他の体への乗り移り方です。

 人間の体を作る「染色体」という名のウイルスは、精子または卵子に乗って、新しい体(=自分の子ども)に宿ります。インフルエンザウイルスは、直接、新しい体(=他人)に口や鼻から侵入します。
 人間とウイルスは、物質的には、その程度の違いしかありません。

 ウイルスも細菌も牛も豚も人間も、生物はみな同根であり、命の重さは平等だということが常識になる時代が、いつか来るでしょう。

●読書メモ『物の本質について』(その2)

●性交は孤独を解消せず証明するだけ──誰も恋人自身は触れない

 肉体は、常に物質の出入りがあります。部屋のホコリの大半は、人間から剥がれ落ちた細胞です。だから、想像すると気持ちが悪いかもしれませんが、私たちは、お互いの細胞を吸いながら生活しているのです。恋人たちが愛を交わし、互いの体を汗でつなぐときは、もっと濃密な細胞の交換がなされ、どこまでが私で、どこからが相手か、という境界線が、あやふやになります。

 しかしそんな快楽の刹那でも、二人の魂が合わさることはありません。「二人は一つになった」といわれるのは、物質的なことだけであり、「心も体も溶けあった」というのはウソです。私は私、彼女は彼女、二人はまったく別の存在で、二つの魂は、かすりもしていません。二人が交わる目的は一つになることなのに、決して叶わぬ愛と孤独の真理を、ローマの詩人哲学者ルクレーティウスは、こう描写しています。

●202頁より抜粋
彼らは懸命に抱き合い、口の唾液を交え合い、歯を唇に押しつけながら、深い呼吸をする、がすべて空しいことである。というのは、何もそのために得ることは ない以上、彼らは全身を以て他の肉体内に浸透することも、とけこむこともできないからである。というのは、彼らが往々達せんと欲し、争うように見うける目 的はこれなのである。
(引用終わり)

 性交は、孤独を解消するものではなく、孤独を裏づけるものです。恋人たちは、一つになることを望みますが、ことが終われば、前にもまして、二人であった ことが思い知らされます。誰が恋人の肉体ではなく、「恋人自身」に触れたことがあるでしょうか? 恋人の魂は、見ることも触ることも知ることもできない、 私の魂と、なんの関係を持つこともできない、私からは完全に切り離された、「他者」なのです。

 では、他人の魂をうかがい知ることはできなくても、自分の魂ならば、知ることができるのでしょうか。
 それが『愛と哲学の自分探し』のテーマです。

 

●読書メモ『人間』

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●何でも気の持ちよう

「何でも気の持ちようだよ」と、よく言われます。
「自分の心を変えることが大事」ということですが、なぜ「心」が大事なのでしょうか。

 今、あなたの周りには何がありますか? まず、この本があるでしょう。机で読んでいるのであれば、机もありますし、それから椅子にスタンド、鉢植え、窓ガラス、ドア……その他たくさんの「もの」に囲まれています。
 だからあなたは「もの」を見ているのです。

「そんなことは当たり前だ」と思われるかもしれません。たしかに私たちが見ているのは、「もの」です。しかしそれは、ただの「もの」ではありません。
 私が見ているのは、「私の心が生み出した〝もの〟」なのです。

「そんなバカな! 私の心が、どうやってこの世界を生み出すことができるのか」と思われるでしょうが、これは実際に私たちが経験していることです。
 例えばここに、おにぎりが一つあったとします。もし私が三日間何も食べていなくて、空腹にあえいでいたならば、そのおにぎりは特別なご馳走に見えるに違いありません。そして、「ああおいしそうだ、何としても食べたい!」と思うでしょう。
 一方、そのおにぎりを見ている人がもう一人いて、その人は毎日ステーキやキャビアなどの高級料理を食べていたとします。そんな人は、おにぎりを見ても気にもとめず、「食べたい」とも思わないでしょう。
 同じおにぎりが、見る人によって、ご馳走にもなれば、さほど魅力のない食べ物にもなるのです。
 もう一つ例を挙げましょう。私の家に強盗が押し入り、「殺される!」と覚悟したとき、警察官が駆けつけてくれたとします。私は「助かった」と胸をなで下ろし、警察官を何とも頼もしい善人だと見ます。ところが強盗は、「何でこんな時に来たんだ」と、警官を鬼か悪魔のように恨むでしょう。
 警察官は一人なのですが、誰が見るかによって、善人にもなれば悪人にもなります。私は「私の心が生み出した〝善い警察官〟」を見ていますし、強盗は「強盗の心が生み出した〝悪い警察官〟」を見ているのです。

 このように私たちは、自分の心が生み出した「人」や「もの」を見ています。これをエルンスト・カッシーラ(二十世紀のドイツの哲学者)は、「人間は、『物』それ自身を取り扱わず、ある意味において、つねに自分自身と語り合っている」と表現しました(『人間』65頁)。
 一人一人が、自分の心が作り出した世界に住んでいるのです。私の心が変われば、私の心が産み出す世界も変わります。だから恋する人には、世界が輝いて見えますし、不満だらけの人には、周りのすべてがつまらなく感じられるのです。
「何もかもつまらない」という人は、その人自身の心に原因があるのでしょう。
 世界は心を映す鏡です。不愉快な人は、不愉快な世界を映します。
 では、どうすれば世界が明るく変わるのか。これが『愛と哲学の自分探し』のテーマです。

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