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●読書メモ一覧

■哲学

『ソクラテスの弁明』プラトン
『反哲学的断章―文化と価値』ウィトゲンシュタイン
悦ばしき知識』(その1)ニーチェ
悦ばしき知識』(その2)ニーチェ
パイドン』プラトン
シーシュポスの神話』(その1)カミュ
シーシュポスの神話』(その2)カミュ
存在と時間』ハイデガー
実存主義とは何か』(その1)サルトル
実存主義とは何か』(その2)サルトル
自殺について』ショーペンハウエル
物の本質について』(その1)ルクレチウス
物の本質について』(その2)ルクレチウス
人間』カッシーラー
哲学入門』(その1)ラッセル
哲学入門』(その2)ラッセル
哲学入門』(その3)ラッセル
形而上学』アリストテレス
哲学の原理』デカルト

■科学

 

『利己的な遺伝子』(その1)R・ドーキンス
『利己的な遺伝子』(その2)R・ドーキンス

■文学

カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
若きウェルテルの悩み』ゲーテ

●読書メモ『シーシュポスの神話』(その2)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)
カミュ
新潮社
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 日本でいう「賽の河原」にあたるのが、ギリシア神話の「シーシュポスの岩」という話です。
 神々の怒りに触れたシーシュポスは、冥土で巨大な岩を山頂まで運び上げる刑罰を科せられています。なんとか岩を運び終えると、岩は自然に転がり落ちてしまうので、この苦役を永遠に繰り返さなければならないのです。たしかに、意味も目的もない労働ほど恐ろしい懲罰はないでしょう。
 しかしカミュは、私たちの人生もシーシュポスに劣らず無意味だと言います。幸か不幸か、人間がそんな事実に気づくのは稀だから、平然と生きられるのです。

こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。(カミュ『シーシュポスの神話』170頁) 

●読書メモ『哲学入門』(その1)

●なぜ哲学では答えが出ないのか

 西洋哲学には二千年の歴史がありますが、すべての人が納得するような答えが出た問題は、ほとんどありません。哲学がとりあげる問題は、未解決のものばかりなのです。その理由の一つをラッセルは、こう説明します。
 哲学はあらゆる対象を研究してきましたが、その中で「天体の運動」や「物の性質」など、いくつかの問題は答えが出せるようになりました。すると「天文学」「物理学」「心理学」など、そのテーマを扱う個別の学問が登場し、哲学から独立します。
 その結果、哲学が論ずる問いは、まだ明確な答えが出せないものばかり残ってしまうのです。だから哲学では何も分からないというのは、見かけのことであって、ほとんどは誤解に基づいています。


 どんな主題についても、確定的な知識が可能になるとたちまちこの主題は哲学と呼ばれることをやめてちがった科学となるという事実がこれです。現在は天文学に属する天空の研究はかつては哲学に包摂されておりました。ニュートンの偉大なる業績は「自然哲学の数学的原理」と呼ばれました。同様に、哲学の一部であった人間の心の研究はいまでは哲学から分離されて心理学という科学になっています。したがって哲学の不確実性は大きな部分が真実であるよりは見掛け上のものなのです。すでに確定的な答が可能であるような問題は科学のなかで提出され、現在では決定的な答はあたえられないものだけが哲学と呼ばれる残りのものを作っているのです。(ラッセル『哲学入門』157頁)

●読書メモ『哲学入門』(その2)

●ラッセルの語る「哲学の効用」

「宇宙には計画や目的があるのか、それとも原子の集まりにすぎないのか」
「人間は、限りなく成長してゆく宇宙を構成する、意味のある存在なのか、やがて消え去る一時の偶然なのか」
「善悪は人間が決めたものにすぎないのか、人間の思いと無関係に宇宙を貫いている法則なのか」
 これらの問いに、哲学は論理的な答えを出したとはいえないでしょう。

 ハッキリしたことは何も分からない哲学に、価値などあるのでしょうか。ラッセルは、哲学によっては確実なことが分からないからこそ、哲学はプラスになるのだと言います。哲学と無縁な人は、ただ常識や習慣をうのみにしているだけで、偏見に満ちた生活を送っているにもかかわらず、自分は世界のことをわかりきった者のように思って、安心しているのです。
 ところが哲学を始めるや、当たり前と思っていたことにも疑いが生じて、視野が広がるのです。たしかに、「私は真実を知っている」という確信は減りますが、思い上がった独断が取り除かれ、物事の意外な面を知る驚きがあります。これがラッセルの語る、「哲学の効用」です。


 実際、哲学の価値は大部分その不確実性に求めるべきものです。哲学と無縁なものは、常識に由来したり、年齢または国籍による習慣的信仰からきたり、かれの慎重な理性の協力または同意をえないままに心中成長した確信から出てきたりする偏見にとらわれて生涯を送ります。このような人には、世界は確定的で有限で、わかりきったものになりやすいものです。ありふれた事物は問題を提起せず、不慣れな可能性は軽蔑的に拒否されます。これに反し哲学をし始めるやいなや、初めの各章でみたように、もっともありふれたものでさえも大変不完全な答しか出てこないような問題につながっていることがわかります。哲学はそれが提出する疑問に対して、確実性をもって何が真かを教えることはできませんが、わたしたちの思考を拡大し、それを習慣の暴虐から解放するいろいろな可能性を示唆することはできます。したがって、事物がどんなものかについての、わたしたちの確実性の感じを減らしはしますが、事物はどんなものでありうるかについての、わたしたちの知識を大いに増します。それは、閉ざされた局面から人を解放する懐疑の領域に踏み込んだことのない人たちの幾分尊大な独断を取り除き、なじみ深い事物の、なじみのない面を示すことによって、わたしたちの驚異感をかきたてつづけるのです。(ラッセル『哲学入門』158-159頁)

●読書メモ『哲学入門』(その3)

●全宇宙に視野を広げてこそ自由になれる

 哲学は、「世界とは何か」「人生の意味は」「人としてなすべきことは何か」というような、普通の人が問題にしないことまで、広く深く探求します。ただ生きるだけなら、そんなことまで考える必要はありません。
 自分や家族、友人のことだけ考えれば十分だと考えている人が多いのかも知れませんが、そのような生活はやがて、もっと大きな力によって破滅させられます。病気や老い、不慮の事故、災難など、自分の生きている小さな世界を邪魔するものは尽きませんし、それらの障害をどれだけ払いのけても、最後は死によって完敗します。
 敵に周りじゅうを包囲され、最後は降伏しなければならないと決まっている城に、安心や平和があるはずがありません。私たちが本当に自由に生きるには、このような狭い牢獄から脱して、自分だけでなく存在するすべてを考慮しなければならないとラッセルは説いています。

 本能的人間の生活はかれの個人的な興味の範囲内に閉ざされています。家族と友人は入るでしょうが、本能的欲求の範囲に入るものを助けたり妨げたりしなければ外部世界は顧慮されないのです。(中略)本能的関心の私的世界は、遅かれ早かれ私的世界を破滅させるに決まっている強大な世界の真只中におかれた、矮小な世界です。全外部世界を包含するようにわたしたちの関心を拡大できなければ、わたしたちは要塞中に包囲されて敵が逃亡を許さず、最後には降服せざるをえないことを知っている守備兵のようなものです。このような生活には平和はなく、頑強な欲求と無力な意志とのあいだの絶えざる闘争があるだけです。わたしたちの生活が偉大で自由であるべきならば、何らかの方法でこの牢獄とこの闘争から逃れなければなりません。
 逃れる一つの方法は哲学的思索によるものです。(ラッセル『哲学入門』159-160頁)

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