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六師の思想(1)プーラナ・カッサパ

 六師はいずれもバラモン教に反抗し、特徴ある学説を唱えた自由思想家として有名です。彼らの主張を順に見てみましょう。
 まずプーラナ・カッサパは、道徳否定論者です。どんな悪をなそうとも、その報いはなく、どんな善に励んでも、同じく報われることはないのだと主張しました。
 人を苦しめたり悲しませたりしても、たとえ強盗や殺人を犯しても、それは悪ではなく、悪の報いもない。逆に、施しをしたり、自分を律して嘘をつかないように努めようと、聖なる儀式を行おうと、善をしたことにはならず、なんの果報もないというのです。
 プーラナは、何が善で何が悪かは、人間がかりに決めたものであり、真実からいえば善も悪も実在しないのだと主張しました。
 善悪など人間どうしの取り決めにすぎないのだから、悪をしても人間に見つかりさえしなければ、何の報いもないと思っている人は、プーラナと同じ考えをしているのです。
 たとえ人間に罰せられなくても、悪をすれば報いがあると信じている人は、プーラナと違って、善悪が実在すると考えている人です。
 善悪は、人間が勝手に決めたものにすぎないのか、それとも人間がどう考えるかによらず、悪をすれば報いが来るのか。
 どちらの考えを採るか、一人一人が決めなければなりません。他の思想家の説も聞いてみましょう。

六師の思想(2)マッカリ・ゴーサーラ

 次はマッカリ・ゴーサーラです。ゴーサーラもまた、道徳を否定して、人間の意志や努力を否定した人です。すべて私たちの運命は決まってしまっているのだから、人間にはどうすることもできないという「宿命論」を唱えました。
 すべての生き物が、何億年、何兆年前から輪廻をしていることには、何の原因もなく、やがて彼らが清らかな存在になって輪廻から離れる(解脱)のも、何の原因も理由もないというのです。あらゆる生命は、ただ自分にやってくる運命に流され、ある時は苦しみを、ある時は楽しみを受けて、八百四十万大劫という数え切れないほど長年月の間、苦しみ続けた末に輪廻が終わると説きました。
 譬えていうと、糸を巻いて作った「まり」を投げると、解きほぐれるまで転がり続けてるようなもので、愚者も智者も定められた期間、流転を続けるのです。修行によってその期間を変えることもできません。
 このようにゴーサーラは自由意志を否定し、善い行いもなければ悪い行いもなく、行為の報いもないと主張しました。ただすべての運命は決まっており、それを受け続けるしかないという考えです。

六師の思想(3)アジタ・ケーサカンバリン

 当時のインドには唯物論者も現れており、その典型がアジタ・ケーサカンバリンです。
 アジタは、人間は地・水・火・風の四元素からできており、死ねば人間を構成していた元素がバラバラになって元も場所に戻ると主張しました。身体の他に魂は存在せず、死後は無になるのだから、善いことをしようと悪いことをしようと、来世に報いを受けることはないと説きます。
 先に紹介したプーラナは、何の根拠も無しに道徳を否定しましたが、アジタは唯物論をもとに、なぜ善いことをしようと悪いことをしようと意味がないのか説明しました。
 唯物論が正しければアジタのいう通りでしょうが、アジタの主張を検討する前に、唯物論の是非から吟味しなければなりません。

六師の思想(4)パクダ・カッチャーヤナ

 アジタと同様、唯物論的な思想を唱えたのがパクダ・カッチャーヤナです。パクダは、人間は七つの要素から構成されていると考えますが、一人一人が多くの元素からできているので、一個人というものは無いのだという、異様な説を唱えます。
 パクダによれば、たとえ鋭利な刃物で頭を断っても、刀が七つの元素のすき間を通過しただけで、そこには「殺した人」というものもなければ、「殺された人」というものもないのです。
 唯物論的な考え方を貫けば、殺人というものもなければ、悪というものもなくなってしまうことが分かります。

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