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六師の思想(5)サンジャヤ・ベーラッティプッタ

 インドでは古くから、真理をありのままに認識したり、述べたりすることは不可能だという「不可知論者」が現れましたが、その代表がサンジャヤです。
 サンジャヤは、「来世は存在するのか」と聞かれても、「あるとも思わないし、あるらしいとも思わない。無いとも思わないし、無いのではないとも思わない」と意味不明な答弁ですり抜け、決して「こうだ」と答えませんでした。そのため「ウナギのようにぬらぬらして捕らえがたい議論」と呼ばれました。
 インド思想史上、最初の懐疑論者として登場したサンジャヤは、「善や悪の行為の報いはあるか」「さとりの完成者は死後に存在するか」などの哲学的な問いには何ら断定せず、判断を停止したのです。
 サンジャヤは、後に釈迦の弟子となったサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目蓮)の師であったことでも知られます。この二人はサンジャヤの高弟として期待されていましたが、仏説に触れて感動し、二百五十人の弟子を引き連れて釈迦に帰依しました。それを知ったサンジャヤは、悲憤のあまり熱血を吐いて死んだと伝えられています。

六師の思想(6)ニガンタ・ナータプッタ

 ニガンタは本名をヴァルダマーナといい、ジャイナ教を開きました。信者からはマハーヴィーラ(偉大な英雄)と尊称され、修行を完成したジナ(勝利者)と呼ばれます。「ジャイナ教」とは、ジナの教えということです。
 当時の思想界は、種々の思想が対立し、争っていましたが、マハーヴィーラは物事に関して絶対的な、一方的な判断をしてはならないと主張しました。何か判断するときには、「ある点からみれば」こうだと、制限をつけなければならないというのです。
 マハーヴィーラは、人間が行為(業)をすると、微細な物質が霊魂の周りに付着すると考えました。私たちの魂は、自らの業に束縛されているために、迷いの世界を輪廻し続けなければならないので、これを防ぐには、徹底した苦行によって過去の業を消すとともに、新しい業をやめて、魂を浄化しなければならないと主張します。
 そんな苦行は世俗的な生活をしていては不可能なので、出家して修行者となり、一切の欲望を断ち切ることを勧めました。修行者には多くの戒律がありましたが、まず第一に遵守すべきだったのは、殺生をしない、ウソをつかない、盗みをしない、姦淫をしない、自分の物を持たない(無所有)、という五つの戒律です。
 特に重視されたのは「不殺生」だったので、ジャイナ教の修行者は微生物を吸い込まないように口はマスクで覆い、水はこしてから飲み、虫を踏み殺さぬように、ほうきで掃きながら歩きました。無所有も徹底していたので、一糸もまとわず、蚊やハエに身をさらして修行をしたといいます。彼らはしばしば断食を実行し、断食による死が極度に称賛されています。
 このような戒律は、在俗の信者には実行できないので、一般の信者はできるだけ道徳的に正しい行いをするように教えられました。殺生を慎むように言われているので、ジャイナ教信者は商工業を選ぶ傾向があります。

宿命論と偶然論

 以上で六人の思想家の説を紹介しましたが、大きく分けると、「宿命論」と「偶然論」の二種類に分かれます。
「宿命論」とは、私たちの運命は過去、生まれる前に決まってしまっているという考えです。
 マッカリ・ゴーサーラは、私たちの運命は生まれたときに決まっているから、今さらどんな行為をしても変えられないと主張した代表です。またジャイナ教のように、過去の悪業によって、運命は確定しているという説もあります。
 ここで「偶然論」とよぶのは、私たちの行為と運命の間には、なんの関係もないという考えです。善いことをやったからといって幸せになるとは決まっていませんし、悪をしたら不幸になるとも限らない。運命は偶然によって決まるものであり、私たちの行為とは何の因果関係もないという考え方です。
 道徳否定論者プーラナは、善をしても善果はないし、悪をしても悪報はないと主張しましたし、アジタも善い行いは必ずしも善果を約束せず、悪業は必ずしも悪果を予定しないと言いました。ともに道徳を認めない立場です。

有神論と自業自得

 六師の思想を大ざっぱに分ければ、「宿命論」と「偶然論」ですが、六師の共通点は伝統的なバラモン教に反対していたという点です。
 バラモン教は、万物を想像した神の存在を説く「有神論」です。もし、そのような創造主を認めるならば、私たちの運命も、神によって与えられたものになります。もし私が人を殺したとしても、それは神にさせられたことですから、私に責任はありません。人間がどんな行いをしても、それは一切の支配者である「神」に動かされてのことですから、善でも悪でもないのです。「有神論」も、道徳を否定する思想であることに変わりはありません。
 このような古い宗教に反対したのが六人の自由思想家でしたが、私たちの過去の行為によって運命は確定しているという「宿命論」も、「神」を「過去の行為」と置き換えただけで、非合理な「神」を退けた点では進歩がありますが、人間が善に励み悪に慎んでも、未来の運命は変わらないという、同じ結論に達しています。
 このように考えると、伝統的なバラモン教といい、六師といい、当時のすべての宗教思想に共通する点があります。それは、人間の行為と運命の間に因果関係を認めないということです。
 そのような中で登場したのが、釈迦でした。釈迦は「自業自得」の道理を説いて、善い行いは善果(幸福)を、悪は悪報(不幸)を生み出すと教えました。
 私たちの行為が運命を決めるのか、それとも人間の行為と運命に因果関係はなく、神か偶然のしわざなのか。これから考えていきましょう。

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