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何をすれば幸せになれるのか

「自由」とは、「限られた選択肢の中から、自分でよく考えて決断すること」ですから、ただやりたいことをするのではなく、何をすべきか慎重に考えて、正しい選択をしなければ、自由には生きられません。
「とにかく今やりたことをする」というのは、その時の「欲望」や「気分」のいいなりになっている〝奴隷状態〟であって、「理性」で考えて決断する真の自由ではないのです。
 私たちは日々の生活の中で、常に選択を迫られています。今日、何を食べるか、夕食後にどんなテレビを見るか、休日はどう過ごすか、という些細な選択から、進学先や会社、結婚相手を決めるといった、一生を左右する選択に至るまで、生きる限り「あれかこれか」を選択しなければなりません。
 では、与えられた選択肢から、「今はこれをする」という決断をする際に、一番大切なことは何でしょうか。

「何をすべきか、そんなことはゴチャゴチャ考える必要はない。自分の気持ちに素直に行動すればいいんだ。それこそ自由な人生だ」と答える人もいるでしょう。
 そんなに簡単に「自由」が手に入るのか、検討したいと思います。

「自分に正直に生きよ」は時代錯誤

「自分の気持ちのまま生きることが〝自由〟だ」と主張する人がいますが、この主張の問題点の一つは、「自分の気持ち」そのものが自分でも分からないということです。
「私は何をしたいのか、どうなりたいのか」を知ることは、実はそれほど容易なことではありません。「この大学の○○学部で、こういう研究がしたい」という明確な目標があれば、苦しい受験勉強にも耐えられますが、「大学へ行って、自分が何をしたいか分からない」という学生も多いのではないでしょうか。「大学は、受ける授業も自分で選べるから、勉強したいことを学べる自由な環境なんだよ」と言われても、自分が何をしたいか分からなければ、魅力を感じられないでしょう。事実、〝とりあえず大学に入った〟タイプの学生は、「自分はこれをしたい」という、自分の明確な意志には従わず、楽に単位をくれる「よい」先生を探して、せっかくの自由を自ら潰しているように見えます。
「自分は社会に出て、こういうことがしたい」という夢のある学生よりも、「自分は本当は何がしたいのか」がわからないので、とりあえず安定した職を探す若者のほうが多いのが実態でしょう。
「自分に正直に生きよ」というアドバイスは、もはや時代遅れです。

大事な選択ほど「自分の気持ち」は後回しにする

「自分の気持ちのまま生きることが〝自由〟だ」という主張の、次の問題に映りましょう。「自分の心のまま、何でもできたらいいな」と思われますが、現実には、私たちはそんな無謀な決断はしません。
 もちろん、自動販売機で飲み物を買う時は、「眠気覚ましにコーヒーを」「汗をかいたからスポーツ飲料にしよう」というように、その時その場の思いで決定をしますが、私たちは重大な決断であればあるほど、「自分の思い」などは無視するのです。
 例えば車を買うとき、店に入った瞬間に「あ、この車いいなぁ! 二百万か、よし買おう」という人は、まずいないでしょう。最初に目にとまった赤いハイブリッド車に「一目惚れ」したとしても、他の車種の装備や燃費、性能、価格などを念入りに調べて、「どの車を買う〝べき〟か」を考えます。
「この車が買い〝たい〟」という、自分の気持ちを一端、抑えて、冷静に「どの車を買う〝べき〟か」を追求するのです。大事な決断であればあるほど、私たちは軽率な一時の「感情」よりも、「私はこうすべきだ」という「必然性」を重視します。

「自分の気持ちのまま生きることが〝自由〟だ」というメッセージを実践できる人も、している人も、現実にはいないのです。

 巨額の富を得た大企業の経営者なら、「この車が欲しい!」という感情のまま衝動買いができるかもしれませんが、そんな人こそ「自分の気持ちのまま」には絶対に生きていない人です。責任のある人であればあるほど、会社の方針決定や後継者選びに眠れぬ日が続くことでしょう。最も「自分の素直な気持ち」から遠い人かもしれません。

「何をすべきか」知るのが「自由」

「自由」とは、思い通り何でもできることだと思われがちですが、「これが欲しい」「あれが気に入らない」という、その時その時の浅薄な考えのまま実行するのは、「自由」どころか「自殺行為」です。
 私たちは大事な決断であればあるほど、「感情」に振り回されず、「私は何をすべきか」を真剣に考えるのです。
「自由」に生きるには、「たまたま今、私はこう思っている」という「私の気持ち」ではなく、「私は何をなすべきか」という、客観的、必然的な真理を知らなければならないのです。
 それを探すのが「倫理学」という、善悪を論ずる学問です。倫理学では、「人間が努めるべき善とは何か」「私たちが、してはならない悪は何か」が探求されます。
 もし、この世に「善」も「悪」も存在しないのであれば、「私は何をなすべきか」の答もありませんし、「してはならない」こともありませんので、〝何をやっても構わない〟ことになります。自由とは、「何をなすべきか」真剣に考えてから決断することですが、もし「人間はこうすべき」という真理が存在しないのであれば、もはや考える必要はありません。残されるのは、動物のように本能のまま生きる道だけです。「自由」な生き方など、幻想だったということになります。

「自由」を求める旅は、「自分の気持ち」に従う旅ではなく、「善」を探す旅なのです。

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