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行為と運命の関係

 これからしばらく、「善」とは何かを考えたいと思います。
 善悪の規準は、国や時代によってまちまちです。何が善で何が悪かを論じても、「それは日本だけのこと、アメリカは違う」「昔の人はそう考えていたが、今は通用しない」という水掛け論に終わるでしょう。
 そこで論点をしぼって、私たちの行為と運命にどんな関係があるかを考えたいと思います。
 私たちが一番知りたいのは、「何が善か」というということよりも、「どうすれば幸せになれるのか」でしょう。幸福や不幸という運命は、何によって決まるのか。運命と自分の行為には、関係があるのか、ないのか、考えたいと思います。
 善い行いをすれば、たとえすぐには報われなくても、いつか必ず幸せがやって来るのでしょうか。それとも、正直を貫いたために損をすることもあるのでしょうか。
 罪を犯せば必ず報いがあるのか、他人に見つからなければ何の報いもないのか、どちらでしょうか。

 行為と運命の関係については、大きく分けて三通りの見方があります。一つずつ検討しましょう。

運命はすでに決まっているのか

 私たちの運命は、自分の行為とは無関係に決まってしまっていると考える人がいます。
 典型的なのは、私たちの運命は、天地を創造した神が作って与えたものだという説です。前世の行為(業、カルマ)によって運命が決まってしまっているという考えも、「神」を「カルマ」と言い換えただけで、本質的には同じです。

 もし生まれた時点で運命が決定されているならば、幸せな運命の人は感謝して生活できますが、不幸な人は自分の宿命を呪うしかありません。殺人犯は、成長したら人を殺す定めを持って、この世に生み落とされたことになります。悪いのは「定め」であって、本人ではありません。そんな自他ともに破滅させる怖ろしい「定め」を与えた者がいるならば、それこそすべての悪と不幸の責任を負わなければならないでしょう。

 キリスト教では、万物の創造主たる神が、善悪の規範も決めたことになっています。『聖書』に神は同性愛を禁じると書いてあるから、同性愛は「悪」ということになってしまうのです。それに対してインド人は、もしそんな宇宙の創造神が存在したとすれば、すべての人間はあやつり人形であって、善に励もうが悪を犯そうが、神が設計した通り動いているだけだから、善でもなければ悪でもないと考えました。
 神こそ善悪の根拠だと考える西洋と、神を善悪や自由の破壊者と考えた東洋の発想の違いは、注目に値します。

運命は偶然か

 次に、運命は偶然によって決まるという考えを検討してみましょう。運命と行為の間に関係や法則はないと考える点では、神によって運命が与えられるという教説と同じです。

「善い行いをすれば、幸福という善い運命が現れる」と確信できないのは、「正直者がバカを見る」ということがあるからでしょう。人知れず真面目に働いているのに、評価されない人がある一方で、自分の功績をアピールするのが上手な人は出世します。世の中には、ずる賢い人がたくさんいますから、正当なことばかりしていると、どんどん出し抜かれて損をします。
 逆に、悪逆非道を重ねたのに、最後まで捕まらなかったり、裁判にかけられても有能な弁護士を雇って、金で自由を勝ち取る人もいます。これでは、運命は偶然によって決まるといいたくなります。

「あの人は運がいい」「私は運が悪い」といいますが、その「運」は何によって決まるのでしょうか。もし運命が偶然によって決まるとすれば、真面目に努力しようという気持ちは起きません。しかし実際には、良い運命が来たときに、「これは偶然だ」とは思う人はいないでしょう。「運も実力のうち」などといって、結局は自分の努力という、良い行為の結果だと思っています。
 一方、悪い結果が来たときは「運が悪かった」「あいつのせいだ」と片づけて、自分の行為の結果だとは思いません。
 だから、「運命」についての私たちの考えは、一貫していないのです。実に「都合がよい」考え方をしています。この場合、「都合がよい」とは、「自分が長生きしたり、子孫を残したりするのに役立つ」ということです。
 厳しい生存競争を勝ち抜いて、ライバルを倒すには、
 失敗したり災難に遭ったときに、これは自分が百パーセント悪かったのだと反省したら、とても立ち上がることはできません。不幸の壁にぶつかって止まってしまうより、他人のせいにして気持ちを切り替えて、次の目標に向かった方が早く窮地を脱することができます。いつまでも過去を悔やんでいては再出発できないので、すぐに思考を切り替えて「自分は悪くないんだ、私はまだまだ行ける!」と楽観的になれるように、私たちの脳はできているのです。

 人間は頭がよいように見えますが、本当は「正しい考え方」ではなく、「子孫を残すのに有利な考え方」をしています。私たちの「脳」は、あくまで「進化」の産物であり、子孫を効率よく残すための道具です。真理を探求するための道具ではありません。
 脳は「真理」ではなく「子孫」を求めています。自分の脳にだまされないようにしましょう。

自由から「因果応報」の必然へ

 最後に検討するのは、行為と運命のあいだには必然的な関係があるという説です。「自業自得」「因果応報」といわれる考え方です。
 善い行いをすれば、幸福という善い結果が現れ、悪い行為には不幸という報いがあるというのが「因果応報」という道理です。
「自業」とは自分の行為のことで、自分の行為が自分の運命を生み出すことを「自業自得」といいます。

 昔から哲学者は、「自業自得」「因果応報」という道理は、前世や来世と密接な関係があることを指摘しています。
 表面的に、この世だけのことを見れば、たいした報いも受けず、安楽に暮らしている悪人は大勢いますが、プラトンは悪行の結果は来世に必ずあると説きました。たとえいわれなき迫害を受けた人でも、正直に生きた人は必ず次の世界で幸せになれるから、正義に生きなければならないと主張しています。
 カントも、善に励み徳を積んだ人が、それに見あった幸福になれることは、この世ではとても期待できないので、死後の世界はなければならない(要請される)と言っています。
 この世に生まれたということは、一つの「結果」です。どこの国に、どんな時代に、どんな家に生まれるかで、その人の一生は大きく変わります。裕福な家に生まれれば、家庭教師をつけてもらって、よい大学に入ったり、大学院に進んで好きな研究を続けることもできるでしょう。しかし内戦の続く荒れ果てた貧しい国に生まれたら、教育どころではありません。
 生まれながらに、人それぞれ運命には大きな差がありますが、このような結果の違いは、何によって決まるのでしょうか。生まれたということは「結果」なのですから、その原因は生まれない前(前世)になければなりません。
 このように前世(過去世)から今生(現在世)、そして来世(未来世)へと、過去現在未来の三世を通じて「自業自得」の道理が成り立つことを、「三世因果」といいます。
 古代印度で仏教を説いた釈迦の教えとは、この「三世因果」の教説です。釈迦は、たまたま運が善かったとか悪かったとか、そういう「偶然」というものは万に一つもないと説いています。すべての結果には原因があり、すべては「必然」だというのです。

 そう聞いても、世の中には「偶然」ということもあると考える人もあるでしょう。次に「偶然」「必然」ということについて、考えてみたいと思います。

「自由」とは、「必然」を知ることなのです。(これを初めて明らかにした哲学者はヘーゲルでした)

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