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「自業自得」か「偶然」か

 自分の行為によって自分の運命が決まることを、「自業自得」といいます。善い行いをすれば必ず幸福になり、悪い行いをすれば必ず不幸になる。これは「必然」であって「必ずそうなる」のでしょうか。それとも世の中には原因なしに、偶然おきた結果もあり、行為と運命の間に厳密な関係はないのでしょうか。
 もし「偶然」を認めてしまうと、本当の意味で「自由」になることはできなくなり、「自由探し」の旅は終わってしまいます。「自由」と「必然」は対立するどころか、「必然」だからこそ「自由」になれることを、これから示したいと思います。

「法則」があるから「自由」になれる

 私たちの体は、特に異常がない限り、右手を上げたい時には右手が上がりますし、左手を振ろうとすれば、左手が揺れます。「右手を上げよう」と思ったという原因があれば、必ず「右手が上がる」という結果が起き、「左手を振ろう」という原因には、必ず「左手が揺れる」という結果が生じます。「こういう原因には、必ずこういう結果が生じる」と決まっているからこそ、私たちは「自由に」両手を動かすことができるのです。
 右手で握手しようとしたのに、しびれて動かなかったり、左手や先制パンチが出てしまったのでは、自由どころではありません。「体をこう動かそう」という自分の思いと、体の動きの間に厳密な因果関係があってこそ、自由に行動できるのです。
 釘を打つ時も、「ハンマーをこの位置から、この角度で降り下ろせば、釘に命中する」という法則が成立していなかったら、ハンマーを自由に使うことはできません。そんな法則がなく、釘をねらっても、十回に一回は自分の手や隣の人を打ってしまうデタラメな世界では、ハンマーなど握れないでしょう。
 プロゴルファーは、この角度と力でボールを打つという原因は、どの方角に何ヤード飛んでいくという結果を引き起こすと、正確に予測できるからこそ、ゴルフパットを自在に操れるのです。
「こうすれば必ずこうなる」「こんな原因には、こんな結果」という必然的な法則を知ってこそ、私たちは自由になれます。鳥のように自由に空が飛びたければ、自然界の法則を知り、その法則にのっとって飛行機を作らなければなりません。自然法則も空気抵抗も自分の筋力も無視して、生身の体で今すぐ飛びたいと願うのは、「自由」ではなく「夢想」です。

「必然」と「自由」は対立しない

「自由」と「必然」は対立するどころか、「必然」の法則を知り、その法則に従ってこそ、「自由」になれるのです。
 フランス人に愛を語るには、フランス語を学んで、文法規則に従って話をしなければなりません。文法も単語も無視して、「あなたが好き! アイラブユー!」と叫んでも、おかしな人と思われるだけです。複雑な文法規則を勉強するのは「不自由」と思うかもしれませんが、「規則」をマスターしてこそ「自由」に言いたいことが言えるのです。
「文法なんかどうでもいい! とにかくボクはパリのあの娘に日本語で愛を伝えるんだ」というのは、「自由」ではなく「わがまま」です。

 自然や社会の「法則」や「規則」を学ぼうとも知ろうともしない人に、望みがかなうはずがありません。
 ヘーゲルは「自由」と「必然」は対立するものではなく、「自由」は「必然」を含んでいると言いました。一見、「自由」と反対に見える「必然」を知ってこそ、真の自由が開かれるのです。

「知識をもって決断する」のが自由

 ヘーゲルは「自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた」と評するエンゲルスは『反デューリング論』で、自由とは自然界の法則を離れようと空想することではなく、法則を認識し、その法則に従って計画的に行動することだと言っています。自由とは「知識をもって決定をおこなう能力」なのです。
 そんな法則も知らず、気ままに振る舞う人は、自由なように見えますが、実際は外界の物に心を奪われて、支配されている、不自由な人だとエンゲルスは言います。
 どんな行いが、どんな運命を生み出すかという必然的な道理を知ってこそ、自由に行動できるのです。

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