樹は果によって知られる
犯罪者が捕まって刑罰を受ければ、「自業自得だ」「当然の報いだ」と思うでしょう。「あの泥棒は運が悪かっただけ。本人に責任はない」とは誰も言いません。
ヘーゲルは、犯罪者が処罰を受けるという結果は、本人の「盗もう」とか「殺してしまえ」という悪い心(犯罪的意志)が、目に見える形になった(顕現した)ものだと言います。実際に罪人に刑を与えて苦しめているのは国家権力ですが、そういう運命を作り出した原因は、当人の内に秘めた悪い心なのです。
こういう例なら「因果応報」と思えますが、自分は罪を犯した自覚がないのに、思わぬ不幸や災難、事故や失敗に見舞われると、「なぜ私がこんな目に」「なんて運が悪いんだ」と不平を言ったり、「私は悪くない。悪いのは……」と言い訳を始めたりします。
しかしヘーゲルは、たとえ都合の悪い結果が起きた時でも、恨んだり弁解したりするべきではないと説きます。自分の受ける結果は、自分の蒔いたタネが生み出したものだからです。
イバラにブドウはなりませんし、アザミにイチジクはできません。よい果実をつける木は大事にされ、悪ければ捨てられるように、木の良し悪しは実で決まります。「樹は果によって知られる」という格言は、何ごとにも通ずるとヘーゲルは主張しました。出てきた果実が悪かったということは、それを実らせた木が悪かったということです。良い実がならない責任は、木にあります。イバラが「なぜボクにブドウがならないんだ! 畑が悪い。隣の木のせいだ」と文句を言っても、始まらないでしょう。「そうだね、イバラ君は悪くないね。悪いのは、あのブドウ野郎だね。あいつだけ皆から好かれて、ずるいね」と慰めても意味がありません。
不幸という悪い実がなったのは、自分という木が悪かったからです。親や先生、友人を責めたり、学校や社会など環境のせいにするのは筋違いでしょう。また「偶然だ」と思考を停止したり、「運が悪かった」とあきらめてはなりません。自分の運命は自分が生み出したもの。これがヘーゲルの運命観です。
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