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『女性が自由に生きる幸せ探し』リニューアルのお知らせ

『女性が自由に生きる幸せ探し』の草稿を公開してきましたが、この8月より、今までの内容を整理、加筆修正して、再掲載してから、新しい章を書き加えていきたいと思います。

本の仮タイトルも『読むだけで自由になれる哲学』に変更します。

 

よろしくお願い致しますjapanesetea

【第1章①】なぜ自由になれないのか

 すべての人が自由を求めています。しかし現実は、自分の思いどおりになることはわずかで、不自由を我慢しながら生きなければなりません。

 自由を願いながら、なぜ自由に生きられないのか。「学校が悪い、先生が悪い」「会社のせいだ」「こんな社会だからだ」「収入が十分でないから」「能力が足りないから」など、さまざまな理由が挙げられるかもしれませんが、それらは根本的な原因ではありません。

 自由になれない原因はただ一つ、「自由」という言葉の意味を知らないからです。本当の自由とは何かを知りさえすれば、自由な人生が開けます。
 しかし「自由」を誤解して、自由ならざるものを求めていては、自由にたどり着くことはできないでしょう。

 これから「自由」の本当の意味を分析したいと思います。
 本当の「自由」とは何か、結論から申しましょう。

「自由」とは、「限られた選択肢の中から、自分でよく考えて決断すること」です。

 ここで一番大事なのは、「自分でよく考えて」という部分です。「自由」とは「自らに由る」ということですから、他人に命令されたり、他人の真似をしていたのでは「自由」とは言えません。
 しかし、この定義の前半の「限られた選択肢の中から」という部分に不満を感じる人が多いと思いますので、ここから論じたいと思います。

 私たちの持っているお金は限られていますし、能力にも限界がありますから、何をするときでも、おのずと選択肢は限られます。
 例えば「ゴールデンウィークは旅行をしよう」と思ったとします。経済的に余裕があれば、ヨーロッパ一周や豪華客船に乗ることもできますが、そんな人はごく一部でしょう。自分の懐と相談して、温泉一泊くらいにするか、近くの公園で妥協するか、決めなければなりません。お金があれば、それだけ選択肢も増えますが、どんな富豪でも、火星旅行はできませんし、死ぬまで自家用ジェットで豪遊することもできないでしょう。
 入りたい大学や会社があっても、要求される能力がなければ入れませんし、生涯を懸けたい仕事が見つかっても、誰でも好きな仕事をさせてもらえるほど社会は甘くありません。
 買い物をするときも、何をするときも、私たちの選択肢は限られています。だから「不自由だ」と感じるのでしょう。

 その不満に耐えられず、もっと好きなところに旅行がしたいという人は、収入を増やす努力をしますし、今は無理でも、どうしても入りたい大学のある受験生は、必死に勉強をします。たしかに収入や能力が増せば、選択肢も増します。
 しかし「選択肢」が増えることと、「自由」が増えることとは、全く違います。この認識が、真の「自由」を知る第一歩です。

【第1章②】金や権力で自由は買えない

 経済力や才能、地位があれば、選択肢が増えるのは当然でしょう。それらを「権力」という言葉でまとめるならば、権力を握った人ほど、他の人にはできないことが可能になります。
 多くの人は、「選択肢が多い」ことを「自由」だと思っているので、なんとか選択肢を増やそうと、広い意味での「権力」を求めます。しかし、「権力」は皆が欲しいのですから、自分がより多くの力を欲しがれば、当然、競争に勝たなければなりません。
 すべての人が「選択肢を増やしたい」と思っていますが、だからこそ、自分の選択肢を増やすには、ライバルとの競争に勝たなければならないのです。

 しかし、「選択肢が限られていること」が「不自由」ならば、完全な自由とは「選択肢が限られていないこと」「何でも好きなことができること」になってしまいます。そんなことができるのは、無限の力をもった人だけで、そんな全能の存在は、もはや人間ではないでしょう。
「選択肢が限られている」のは、人間である限り、仕方のないことです。「選択肢を無限に広げること」など、私たちに望むべくもありません。
 もし誰か一人が無限の選択肢を手に入れて「神」になったならば、この世は「地獄」になるでしょう。
 そんな魔神になることと、「完全な自由」「真の自由」とは全く異なります。

「何でも好きなことがしたい」「欲しいものは全て手に入れたい」というのが私たちの理想ですが、人間を超えて全能の存在にならない限り、それはできません。
 それでも、今より少しでもよいから「選択肢を増やしたい」という不満はなくならないでしょう。選択肢を増やしたければ、権力を手に入れればよいのですが、周り中の人が、自分と同じように力を欲しているのですから、激しい競争を覚悟しなければなりません。
 苦労は承知で権力を求めるなら、それはその人の人生です。不正を犯さない限り、権力を求めること自体は、正解でも間違いでもないでしょう。
 しかし「権力」と「自由」とは、全く異なります。「自由」とは、「より強大な力」ではないのです。「権力」があればあるほど、好きなことができるのですから、たしかに「権力」は魅力的です。まただからこそ、多くの人が権力にあこがれるのでしょう。しかし、どれだけの力を得ても、財力や能力には限界があるのですから、選択肢は限られます。

 だから、どんな身になろうと、「選択肢が限られていること」は避けられないのです。「自由」とは、「選択肢を無限にする」ことではありません。
「選択肢が限られている中で、自ら決断すること」こそが、真の自由なのです。
 それなのに、「選択肢が限られていること」にばかり不足を言って、「自由」ではなく「権力」を求めているから、完全な自由になれないのです。
 ほとんどの人が求めているのは、「自由」ではなく「権力」なのではないでしょうか。

【第1章③】自由とは「自らに由ること」

 先に「自由」とは、「限られた選択肢の中から、自分でよく考えて決断すること」だといいました。

 私たちには、自分の「権力」や能力に応じた「選択肢」しか許されていませんが、選択肢が多い少ないより、もっと大事なことがあります。
「自分でよく考えて決断すること」です。

 どんなに選択肢が多くても、よい選択ができなければ意味がありません。お金があれば、有名ブランドの洋服を好きなように買えますが、選ぶセンスが悪ければ無駄遣いに終わるでしょう。裕福だからと高級レストランで食べたいように食べていたら、病気になって食事制限が必要となり、普通の人の何倍も不自由になってしまうかもしれません。

 資産十億ドル以上のビリオネア(億万長者)は、世界に千人ほどしかいませんが、彼らは満足しているのでしょうか。百万ドル持つミリオネア(百万長者)クラスの富豪は、豪邸や自家用ジェットなどを購入して、金持ちの「仲間入り」をしようとします。しかしビリオネアとなると、ミリオネアですら買えない物を手に入れて、自分はそこらの金持ち連中とは「違う」ことを見せつけないと、満足できません。そんな彼らが好むのは、世界に一つしかない最高級の芸術品や、数個しかない「限定品」です。なぜ一枚の絵に巨額の金をつぎ込むのか、庶民には理解しがたいですが、大富豪の中の大富豪でないと買えないような、極上の一品でないと、桁外れに高いプライドは保てないのです。
 世界がどれだけ不況になっても、そういう状況だからこそ儲かる企業が必ずありますので、巨万の富を築く人は必ず現れます。そういう人はほぼ例外なく、破格のぜいたく品を買いますから、超大金持ち相手の商売は不況知らずです。それはそれで、億単位のお金が動いて経済全体には良いのかもしれませんが、他の人が買えない物を買わないと満足できないとは、なんと不自由なことではないでしょうか。

 着たい服を着て食べたいものが食べられることは、たしかに魅力的なことですが、そういう生活ができる「力」を手に入れる前に、まず身につけなければならないのは、お金や財産、体力や時間を「何に使うべきか」を知る力ではないでしょうか。
「選択肢」を増やすより、「選択眼」を得ることが「自由」への道です。

【第1章④】願いがかなう「魔法のアイテム」とは

「自由」とは、何でも思いどおりすることであって、「何をすべきか」など考える必要はないと思われるかも知れません。
 では、お望み通り、あなたの願いがかなう「魔法のアイテム」を紹介しましょう。プラトンが『ゴルギアス』の中で語る、珠玉の一品です。これを使えば、気に入らない人間はすぐ死んでしまいますし、お金が欲しければ働かなくても手に入ります。「あの人の着物を引き裂きたい」と念ずれば、その服はただちに裂かれてしまうのです。そんな「魔法のアイテム」が、今なら特価3000円です。「何でも思ったとおりにしたい」という程度の安い「自由」なら、3000円で買えます。

 そのアイテムの正体は、私が懐に隠したナイフです。「なあんだ」と失望したことでしょう。しかし、実はここにこそ、自由の秘密があるのです。たしかにナイフで脅せば、今以上にやりたいことができますが、すぐ警察に捕らえられます。ここから分かることは、「自由」とは「ただ、何でも思いどおりにすること」ではないということです。「合法的」に振る舞わなければ、「自由」とはいえません。
 しかし、ここで早くも重大な哲学の問題にぶつかります。「合法的」とは何でしょうか。

「合法的」とは「法にかなったこと」です。しかし肝心なのは、その「法」とは何かということです。それぞれの時代に、それぞれの国で作られた「法律」のことでしょうか。そういう、国や時代によってコロコロ変わる「法律」に違反しなければ、何をやってもよいのでしょうか。
 例えば奴隷を買うことが禁止されていない国や時代であれば、他人を物や道具のように使うことも「自由」なのでしょうか。売春が認められた国に行けば、金銭で女性の体を自由にしてもよいのでしょうか。
「法律に違反しさえしなければ、思った通りしてよい」という考えは、あまりにも無責任だということは明らかです。
「自由」は決して、「合法的に好きなことをすること」ではありません。
「後ろに手が回ることさえしなえれば、何をやっても自由」というのは、ただの「放縦(わがまま)」であり、本当の自由にはほど遠いものです。「正しいこと」をしなければ真の自由にはなれません。
「自由」になるには、ただ法律を守るだけでは不十分で、何が「正しいこと」かを知らなければならないのです。

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