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【第2章①】「自分に正直に生きよ」は時代錯誤

 私たちは日々の生活の中で、常に選択を迫られています。今日、何を食べるか、夕食後にどんなテレビを見るか、休日はどう過ごすか、という些細な選択から、進学先や会社、結婚相手を決めるといった、一生を左右する選択に至るまで、生きる限り「あれかこれか」を選択しなければなりません。
「あれかこれか」を選ぶときに、「今は、これが欲しいから」「何となく、あちらがよさそう」という理由で決めてしまうのは、「感情」や「気分」のいいなりになっている「奴隷状態」であって、真の自由とは言えないでしょう。
「自由」とは、「限られた選択肢の中から、自分でよく考えて決断すること」ですから、ただやりたいことをするのではなく、何をすべきか慎重に考えて、正しい選択をしなければ、自由には生きられません。
 そう聞くと、「何をすべきか、そんなことはゴチャゴチャ考える必要はない。自分の気持ちに素直に行動すればいいんだ。それこそ自由な人生だ」と思う人もあるでしょう。
 そんなに簡単に「自由」が手に入るのか、検討したいと思います。

「自分の気持ちのまま生きることが〝自由〟だ」と主張する人がいますが、この主張の問題点の一つは、「自分の気持ち」そのものが自分でも分からないということです。
「私は何をしたいのか、どうなりたいのか」を知ることは、実はそれほど容易なことではありません。「この大学の○○学部で、こういう研究がしたい」という明確な目標があれば、苦しい受験勉強にも耐えられますが、「大学へ行って、自分が何をしたいか分からない」という学生も多いのではないでしょうか。「大学は、受ける授業も自分で選べるから、勉強したいことを学べる自由な環境なんだよ」と言われても、自分が何をしたいか分からなければ、魅力を感じられないでしょう。事実、〝とりあえず大学に入った〟タイプの学生は、「自分はこれをしたい」という、自分の明確な意志には従わず、楽に単位をくれる「よい」先生を探して、せっかくの自由を自ら潰しているように見えます。
「自分は社会に出て、こういうことがしたい」という夢のある学生よりも、「自分は本当は何がしたいのか」がわからないので、とりあえず安定した職を探す若者のほうが多いのが実態でしょう。
「自分に正直に生きよ」というアドバイスは、もはや時代遅れです。

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【第2章②】大事な選択ほど「自分の気持ち」は後回しにする

「自分の気持ちのまま生きることが〝自由〟だ」という主張の、次の問題に移りましょう。「自分の心のまま、何でもできたらいいな」と思われますが、現実には、私たちはそんな無謀な決断はしません。
 もちろん、自動販売機で飲み物を買う時は、「眠気覚ましにコーヒーを」「汗をかいたからスポーツ飲料にしよう」というように、その時その場の思いで決定をしますが、私たちは重大な決断であればあるほど、「自分の思い」などは無視するのです。
 例えば車を買うとき、店に入った瞬間に「あ、この車いいなぁ! 二百万か、よし買おう」という人は、まずいないでしょう。最初に目にとまった赤いハイブリッド車に「一目惚れ」したとしても、他の車種の装備や燃費、性能、価格などを念入りに調べて、「どの車を買う〝べき〟か」を考えます。
「この車が買い〝たい〟」という、自分の気持ちを一端、抑えて、冷静に「どの車を買う〝べき〟か」を追求するのです。大事な決断であればあるほど、私たちは軽率な一時の「感情」よりも、「私はこうすべきだ」という「必然性」を重視します。

「自分の気持ちのまま生きることが〝自由〟だ」というメッセージを実践できる人も、している人も、現実にはいないのです。

 巨額の富を得た大企業の経営者なら、「この車が欲しい!」という感情のまま衝動買いができるかもしれませんが、そんな人こそ「自分の気持ちのまま」には絶対に生きていない人です。責任のある人であればあるほど、会社の方針決定や後継者選びに眠れぬ日が続くことでしょう。最も「自分の素直な気持ち」から遠い人かもしれません。

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【第2章③】「何をすべきか」知るのが「自由」

「自由」とは、思い通り何でもできることだと思われがちですが、「これが欲しい」「あれが気に入らない」という、その時その時の浅薄な考えのまま実行するのは、「自由」どころか「自殺行為」です。
 私たちは大事な決断であればあるほど、「感情」に振り回されず、「私は何をすべきか」を真剣に考えるのです。
「自由」に生きるには、「たまたま今、私はこう思っている」という「私の気持ち」ではなく、「私は何をなすべきか」という、客観的、必然的な真理を知らなければならないのです。
 それを探すのが「倫理学」という、善悪を論ずる学問です。倫理学では、「人間が努めるべき善とは何か」「私たちが、してはならない悪は何か」が探求されます。
 もし、この世に「善」も「悪」も存在しないのであれば、「私は何をなすべきか」の答もありませんし、「してはならない」こともありませんので、〝何をやっても構わない〟ことになります。自由とは、「何をなすべきか」真剣に考えてから決断することですが、もし「人間はこうすべき」という真理が存在しないのであれば、もはや考える必要はありません。残されるのは、動物のように本能のまま生きる道だけです。「自由」な生き方など、幻想だったということになります。

「自由」を求める旅は、「自分の気持ち」に従う旅ではなく、「善」を探す旅なのです。

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【第3章①】行為と運命の関係

 これからしばらく、「善」とは何かを考えたいと思います。
 善悪の規準は、国や時代によってまちまちです。何が善で何が悪かを論じても、「それは日本だけのこと、アメリカは違う」「昔の人はそう考えていたが、今は通用しない」という水掛け論に終わるでしょう。
 そこで論点をしぼって、私たちの行為と運命にどんな関係があるかを考えたいと思います。
 私たちが一番知りたいのは、「何が善か」というということよりも、「どうすれば幸せになれるのか」でしょう。幸福や不幸という運命は、何によって決まるのか。運命と自分の行為には、関係があるのか、ないのか、考えたいと思います。
 善い行いをすれば、たとえすぐには報われなくても、いつか必ず幸せがやって来るのでしょうか。それとも、正直を貫いたために損をすることもあるのでしょうか。
 罪を犯せば必ず報いがあるのか、他人に見つからなければ何の報いもないのか、どちらでしょうか。

 行為と運命の関係については、大きく分けて三通りの見方があります。一つずつ検討しましょう。

 私たちの運命は、自分の行為とは無関係に決まってしまっていると考える人がいます。
 典型的なのは、私たちの運命は、天地を創造した神が作って与えたものだという説です。前世の行為(業、カルマ)によって運命が決まってしまっているという考えも、「神」を「カルマ」と言い換えただけで、本質的には同じです。

 もし生まれた時点で運命が決定されているならば、幸せな運命の人は感謝して生活できますが、不幸な人は自分の宿命を呪うしかありません。殺人犯は、成長したら人を殺す定めを持って、この世に生み落とされたことになります。悪いのは「定め」であって、本人ではありません。そんな自他ともに破滅させる怖ろしい「定め」を与えた者がいるならば、それこそすべての悪と不幸の責任を負わなければならないでしょう。

 キリスト教では、万物の創造主たる神が、善悪の規範も決めたことになっています。『聖書』に神は同性愛を禁じると書いてあるから、同性愛は「悪」ということになってしまうのです。それに対してインド人は、もしそんな宇宙の創造神が存在したとすれば、すべての人間はあやつり人形であって、善に励もうが悪を犯そうが、神が設計した通り動いているだけだから、善でもなければ悪でもないと考えました。
 神こそ善悪の根拠だと考える西洋と、神を善悪や自由の破壊者と考えた東洋の発想の違いは、注目に値します。

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【第3章②】運命は偶然か

 次に、運命は偶然によって決まるという考えを検討してみましょう。運命と行為の間に関係や法則はないと考える点では、神によって運命が与えられるという教説と同じです。

「善い行いをすれば、幸福という善い運命が現れる」と確信できないのは、「正直者がバカを見る」ということがあるからでしょう。人知れず真面目に働いているのに、評価されない人がある一方で、自分の功績をアピールするのが上手な人は出世します。世の中には、ずる賢い人がたくさんいますから、正当なことばかりしていると、どんどん出し抜かれて損をします。
 逆に、悪逆非道を重ねたのに、最後まで捕まらなかったり、裁判にかけられても有能な弁護士を雇って、金で自由を勝ち取る人もいます。これでは、運命は偶然によって決まるといいたくなります。

「あの人は運がいい」「私は運が悪い」といいますが、その「運」は何によって決まるのでしょうか。もし運命が偶然によって決まるとすれば、真面目に努力しようという気持ちは起きません。しかし実際には、良い運命が来たときに、「これは偶然だ」とは思う人はいないでしょう。「運も実力のうち」などといって、結局は自分の努力という、良い行為の結果だと思っています。
 一方、悪い結果が来たときは「運が悪かった」「あいつのせいだ」と片づけて、自分の行為の結果だとは思いません。
 だから、「運命」についての私たちの考えは、一貫していないのです。実に「都合がよい」考え方をしています。この場合、「都合がよい」とは、「自分が長生きしたり、子孫を残したりするのに役立つ」ということです。
 厳しい生存競争を勝ち抜いて、ライバルを倒すには、落ち込んで時間とエネルギーを無駄遣いするより、次の勝負に備えなければなりません。失敗したり災難に遭ったときに、これは自分が百パーセント悪かったのだと反省したら、とても立ち上がることはできないでしょう。不幸の壁にぶつかって止まってしまうより、他人のせいにして気持ちを切り替えて、次の目標に向かった方が早く窮地を脱することができます。いつまでも過去を悔やんでいては再出発できないので、すぐに思考を切り替えて「自分は悪くないんだ、私はまだまだ行ける!」と楽観的になれるように、私たちの脳はできているのです。

 人間は頭がよいように見えますが、本当は「正しい考え方」ではなく、「子孫を残すのに有利な考え方」をしています。私たちの「脳」は、あくまで「進化」の産物であり、子孫を効率よく残すための道具です。真理を探求するための道具ではありません。
 脳は「真理」ではなく「子孫」を求めています。自分の脳にだまされないようにしましょう。

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【第3章③】「法則」があるから「自由」になれる

 最後に検討するのは、行為と運命のあいだには必然的な関係があるという説です。「自業自得」「因果応報」といわれる考え方です。
「自業」とは自分の行為のことで、自分の行為が自分の運命を生み出すことを「自業自得」といいます。善い行いをすれば、幸福という善い結果が現れ、悪い行為には不幸という報いがあるというのが「因果応報」という道理です。

 善い行いをすれば必ず幸福になり、悪い行いをすれば必ず不幸になる。これは「必然」であって「必ずそうなる」のでしょうか。それとも世の中には原因なしに、偶然おきた結果もあり、行為と運命の間に厳密な関係はないのでしょうか。
 もし「偶然」を認めてしまうと、本当の意味で「自由」になることはできなくなり、「自由探し」の旅は終わってしまいます。「自由」と「必然」は対立するどころか、「必然」だからこそ「自由」になれることを、これから示したいと思います。

 私たちの体は、特に異常がない限り、右手を上げたい時には右手が上がりますし、左手を振ろうとすれば、左手が揺れます。「右手を上げよう」と思ったという原因があれば、必ず「右手が上がる」という結果が起き、「左手を振ろう」という原因には、必ず「左手が揺れる」という結果が生じます。「こういう原因には、必ずこういう結果が生じる」と決まっているからこそ、私たちは「自由に」両手を動かすことができるのです。
 右手で握手しようとしたのに、しびれて動かなかったり、左のストレートパンチが出てしまったのでは、自由どころではありません。「体をこう動かそう」という自分の思いと、体の動きの間に厳密な因果関係があってこそ、自由に行動できるのです。
 釘を打つ時も、「ハンマーをこの位置から、この角度で降り下ろせば、釘に命中する」という法則が成立していなかったら、ハンマーを自由に使うことはできません。そんな法則がなく、釘をねらっても、十回に一回は自分の手や隣の人を打ってしまうデタラメな世界では、ハンマーなど握れないでしょう。
 プロゴルファーは、この角度と力でボールを打つという原因は、どの方角に何ヤード飛んでいくという結果を引き起こすと、正確に予測できるからこそ、ゴルフパットを自在に操れるのです。
「こうすれば必ずこうなる」「こんな原因には、こんな結果」という必然的な法則を知ってこそ、私たちは自由になれます。鳥のように自由に空が飛びたければ、自然界の法則を知り、その法則にのっとって飛行機を作らなければなりません。自然法則も空気抵抗も自分の筋力も無視して、生身の体で今すぐ飛びたいと願うのは、「自由」ではなく「夢想」です。

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【第3章④】「必然」を知れば「自由」になれる

「自由」と「必然」は対立するどころか、「必然」の法則を知り、その法則に従ってこそ、「自由」になれるのです。
 フランス人に愛を語るには、フランス語を学んで、文法規則に従って話をしなければなりません。文法も単語も無視して、「あなたが好き! アイラブユー!」と叫んでも、おかしな人と思われるだけです。複雑な文法規則を勉強するのは「不自由」と思うかもしれませんが、「規則」をマスターしてこそ「自由」に言いたいことが言えるのです。
「文法なんかどうでもいい! とにかくボクはパリのあの娘に日本語で愛を伝えるんだ」というのは、「自由」ではなく「わがまま」です。

 自然や社会の「法則」や「規則」を学ぼうとも知ろうともしない人に、望みがかなうはずがありません。
 ヘーゲルは「自由」と「必然」は対立するものではなく、「自由」は「必然」を含んでいると言いました。一見、「自由」と反対に見える「必然」を知ってこそ、真の自由が開かれるのです。こういうヘーゲルを、「自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた」と評価するエンゲルスは『反デューリング論』で、自由とは自然界の法則を離れようと空想することではなく、法則を認識し、その法則に従って計画的に行動することだと言っています。自由とは「知識をもって決定をおこなう能力」なのです。
 そんな法則も知らず、気ままに振る舞う人は、自由なように見えますが、実際は外界の物に心を奪われて、支配されている、不自由な人だとエンゲルスは言います。
 どんな行いが、どんな運命を生み出すかという必然的な道理を知ってこそ、自由に行動できるのです。
 私に自由を与えてくれるのは、「権力」ではありません。運命についての「知識」です。

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【第4章①】樹は果によって知られる

 この章でも、「自業自得」の道理を吟味をします。すべて「自業自得」と知れば、あたなの自由は飛躍的に増すでしょう。

 犯罪者が捕まって刑罰を受ければ、「自業自得だ」「当然の報いだ」と思います。「あの泥棒は運が悪かっただけ。本人に責任はない」とは誰も言いません。
 ヘーゲルは、犯罪者が処罰を受けるという結果は、本人の「盗もう」とか「殺してしまえ」という悪い心(犯罪的意志)が、目に見える形になった(顕現した)ものだと言います。実際に罪人に刑を与えて苦しめているのは国家権力ですが、そういう運命を作り出した原因は、当人の内に秘めた悪い心なのです。
 こういう例なら「因果応報」と思えますが、自分は罪を犯した自覚がないのに、思わぬ不幸や災難、事故や失敗に見舞われると、「なぜ私がこんな目に」「なんて運が悪いんだ」と不平を言ったり、「私は悪くない。悪いのは……」と言い訳を始めたりします。
 しかしヘーゲルは、たとえ都合の悪い結果が起きた時でも、恨んだり弁解したりするべきではないと説きます。自分の受ける結果は、自分の蒔いたタネが生み出したものだからです。
 イバラにブドウはなりませんし、アザミにイチジクはできません。よい果実をつける木は大事にされ、悪ければ捨てられるように、木の良し悪しは実で決まります。「樹は果によって知られる」という格言は、何ごとにも通ずるとヘーゲルは主張しました。出てきた果実が悪かったということは、それを実らせた木が悪かったということです。良い実がならない責任は、木にあります。イバラが「なぜボクにブドウがならないんだ! 畑が悪い。隣の木のせいだ」と文句を言っても、始まらないでしょう。「そうだね、イバラ君は悪くないね。悪いのは、あのブドウ野郎だね。あいつだけ皆から好かれて、ずるいね」と慰めても意味がありません。
 不幸という悪い実がなったのは、自分という木が悪かったからです。親や先生、友人を責めたり、学校や社会など環境のせいにするのは筋違いでしょう。また「偶然だ」と思考を停止したり、「運が悪かった」とあきらめてはなりません。自分の運命は自分が生み出したもの。これがヘーゲルの運命観です。

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【第4章②】運は自分のつくるもの

 とかく私たちは、幸せが来ると「これは自分が日ごろ、努力しているから」と当然のように受け止めますが、不幸に対しては「私は悪くない!」と憤慨して、自分の運命に納得することができません。
 しかしヘーゲルは、我が身に降りかかったことは、どんなことであれ自業自得と受け止めよと説きます。「自分の身におこることを、『運は自分の作るもの』という古い諺の精神において理解することが非常に大切」なのです(『小論理学』)。
 我が身に降りかかることは自己責任であり、人はただ自分の罪を担うのだと認める人は、どんな不幸にも魂の平安をかき乱されることはありません。ヘーゲルは、この世に偶然ということはなく、すべての結果には、そうなった原因があると主張します。例えば自分が経営する会社の売り上げが減ったならば、それには必ずそれ相当の原因があったのです。原因なしに損をすることはありません。利益を優先して粗悪な製品を作っていたとか、サービスが悪くて信用を失ったとか、いろいろな原因が重なって起きた結果なのです。
「もっと儲かって当然なのに損をした」と思うから、不満が出るのです。そして、「自分にこんな不当な運命を与えたのは誰か」と犯人捜しを始めます。それでは、不平と憎しみが増えるだけでしょう。
 売り上げが減った原因のすべては分からなくても、それは自分が無知なだけです。「これだけしか儲からない原因があって、儲からなかったのだ」と受け止めれば、何の不満もありません。
 一切は必然であり、起きるべくして起きたのです。「私のような真面目な善人に、こんなひどいことが起きるはずがない!」と思うのは、原因を知らない無知と自惚れから来る怒りではないでしょうか。
「運は自分の作るもの」だと認めない人は、他人や環境に責任転嫁しますが、そんな見方こそ「不満のもと」だとヘーゲルは言います。
 運命は必然と見るか否かで、「人間の満足と不満足」は決まり、それはまた「人間の運命そのもの」を決定するのだとヘーゲルは説きました。

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