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『読むだけで自由になれる哲学』目次

第1章 自由になれないただ一つの理由

  1. なぜ自由になれないのか
  2. 金や権力で自由は買えない
  3. 自由とは「自らに由ること」
  4. 願いがかなう「魔法のアイテム」とは
  5. 「自由」に生きる知恵

第2章 自由を見つける旅

  1. 「自分に正直に生きよ」は時代錯誤
  2. 大事な選択ほど「自分の気持ち」は後回しにする
  3. 「何をすべきか」知るのが「自由」

第3章 恋も運命も必然か

  1. 行為と運命の関係
  2. 運命は偶然か
  3. 「法則」があるから「自由」になれる
  4. 「必然」を知れば「自由」になれる

第4章 「自業自得」と知るのが自由

  1. 樹は果によって知られる
  2. 運は自分のつくるもの
  3. 必然を認識すれば慰めは必要なし
  4. 天道、是か非か
  5. 自由は不死を要請する

第5章 インド哲学で運命を知る

  1. なぜ今、古代インドか
  2. インド哲学の効用
  3. 六師の思想(1)プーラナ・カッサパ
  4. 六師の思想(2)マッカリ・ゴーサーラ
  5. 六師の思想(3)アジタ・ケーサカンバリン
  6. 六師の思想(4)パクダ・カッチャーヤナ
  7. 六師の思想(5)サンジャヤ・ベーラッティプッタ
  8. 六師の思想(6)ニガンタ・ナータプッタ
  9. 宿命論と偶然論

第6章 ブッダの説く「縁起」

  1. ブッダは何を悟ったのか
  2. 行為とその報い
  3. 行為は滅びない
  4. 見える原因と隠された原因
  5. すぐ結果が現れるとは限らない
  6. 因果の道理の結論

第7章 プラトニックか背徳か

  1. ソクラテスとカリクレスの討論
  2. 力こそ正義か
  3. 権力者に近づく人が賢いのか
  4. 「優れた人」とは誰か
  5. ただ欲を満たすだけでよいのか
  6. 「気持ちよい」と「善い」は違う

【第5章⑧】六師の思想(6)ニガンタ・ナータプッタ

 ニガンタは本名をヴァルダマーナといい、ジャイナ教を開きました。
 ヴァルダマーナは、人間の魂は本来は清浄なのですが、生きている間にした行為(業)が、微細な物質となって霊魂に付着し、迷いの世界に縛りつけていると言います。そのために輪廻を続けなければならないので、それを止めるには、徹底した苦行によって過去の業を消すとともに、新しい業をやめて、魂を浄化しなければならないと主張しました。
 魂が流転してきたのは、この肉体が生まれるはるか過去からのことですから、その間の業を滅するには徹底した苦行をしなければなりません。厳しい修行は世俗的な生活をしていては不可能なので、出家して修行者となり、一切の欲望を断ち切ることを勧めました。修行者には多くの戒律がありましたが、まず第一に遵守すべきだったのは、殺生をしない、ウソをつかない、盗みをしない、姦淫をしない、自分の物を持たない(無所有)、という五つの戒律です。
 特に重視されたのは「不殺生」だったので、ジャイナ教の修行者は微生物を吸い込まないように口はマスクで覆い、水はこしてから飲み、虫を踏み殺さぬように、ほうきで掃きながら歩きました。無所有も徹底していたので、一糸もまとわず、蚊やハエに身をさらして修行をしたといいます。彼らはしばしば断食を実行し、断食による死が極度に称賛されています。
 ヴァルダマーナは、自分は修行を完成してジナ(勝利者)となったから、後は新しい業を作らないようにするだけだと言い、食を断って餓死しました。「ジャイナ教」とは「ジナの教え」という意味です。ヴァルダマーナにならって、多くの修行者が「勝利者」を目指して餓死しました。
 ジャイナ教が重視するのは、「現在の行いが未来の運命を生み出す」ということではなく、「過去の行為(宿業)が現在の運命を形成した」ということす。苦しみに満ちた現世は、無限の過去からの宿業によって決定されたものであり、この宿業の束縛からいかに逃れるか、ということに力点が置かれています。現在の行いが未来の運命を作り出すのだから、未来に向かって責任ある行動をとり、自由に生きようという思想ではありません。

【第5章⑨】宿命論と偶然論

 以上、六人の思想家の説を紹介しましたが、大きく分けると、「宿命論」と「偶然論」の二種類に分かれます。
「宿命論」とは、私たちの運命は過去、生まれる前に決まってしまっているという考えです。マッカリ・ゴーサーラは、私たちの運命は生まれたときに決まっているから、今さらどんな行為をしても変えられないと主張した代表です。
 もう一つの「偶然論」とは、私たちの行為と運命の間には、なんの関係もないという考えです。善いことをやったからといって幸せになるとは決まっていませんし、悪をしたら不幸になるとも限らない。運命は偶然によって決まるものであり、私たちの行為とは何の因果関係もないという考え方です。
 道徳否定論者プーラナは、善をしても善果はないし、悪をしても悪報はないと主張しました。アジタも善い行いは必ずしも善果を約束せず、悪業は必ずしも悪果を予定しないと言っています。ともに道徳を認めない立場です。

 六師の思想を大ざっぱに分ければ、「宿命論」と「偶然論」ですが、六師の共通点は伝統的なバラモン教に反対していたという点です。
 バラモン教は、万物を想像した神の存在を説く「有神論」です。もし、そのような創造主を認めるならば、私たちの運命も、神によって与えられたものになります。もし私が人を殺したとしても、それは神にさせられたことですから、私に責任はありません。人間がどんな行いをしても、それは一切の支配者である「神」に動かされてのことですから、善でも悪でもないのです。「有神論」も、道徳を否定する思想であることに変わりはありません。

 このように考えると、伝統的なバラモン教といい、六師といい、当時のすべての宗教思想に共通する点があります。それは、人間の行為と運命の間に因果関係を認めないということです。
 そのような中で登場したゴータマ・ブッダ(釈迦)は、善い行いは善果(幸福)を、悪は悪報(不幸)を生み出すという、「自業自得」の道理を説きました。それは宿命論や偶然論と、どこが違うのか、聞いてみましょう。

【第6章①】ブッダは何を悟ったのか

 インドで仏教を説いたゴータマ・ブッダは約2600年前、ネパールのカピラ城に、シャカ族の国王・浄飯王の長子として生まれました。シッダールタと名づけられ、何不自由のない生活をしていましたが、どんな幸福も老いと病と死によって崩されることを知った太子は、心からの安心も満足も得られませんでした。真の幸福を求めた太子は、ついに二十九才の時に城を出て修行者となり、六年間の苦行の末、三十五歳の時に大宇宙の真理を悟って「ブッダ」となりました。「ブッダ」とは「目覚めた人」「悟った人」ということです。
 ではゴータマ・ブッダは何を悟った(発見した)のかというと、「縁起の理法」といわれています。「縁起」とは「因縁生起」の略で、この世のすべては、さまざまな原因が複雑に重なり合って生じたものであり、起きた事だということです。
 ここで「因」とは結果を引き起こす直接の原因、「縁」は結果が生じるのを助ける間接的な原因(条件)をいいます。単純に一つの原因から一つの結果が現れるのではなく、「因」と「縁」がそろって初めて「果」が生じると説くのが、「因縁生起」です。
 分かりやすい例でいいますと、「米」という結果ができる原因はモミダネです。モミダネが無ければ、絶対に米はできません。しかしモミダネだけあっても、生育に必要な日光や水、空気、養分や農家の人の労働力など、いろいろな条件がそろわなければ、米はできません。モミダネから米ができるのを助けるものが「縁」です。
「因」が異なれば「果」も異なりますから、モミダネでも「コシヒカリ」を蒔くか「ヒトメボレ」を蒔くかによって、収穫できる米も変わります。また「縁」が変わっても「果」は変化しますので、同じ「コシヒカリ」を蒔いても、年によって日照時間や気温などの「縁」が異なりますので、味や品質が変わります。
 すべての結果は「因」と「縁」が和合して生じたものであり、原因なしに起きた結果は万に一つもないというのが「因縁生起」の理法です。「因」と「縁」が結びついて「果」が生じるという道理なので、「因縁果の道理」とか、略して「因果の道理」ともいわれます。

【第6章②】行為とその報い

 すべての人は不幸をいとい、幸福を求めて生きています。その幸福や不幸ということは、何によって決まるのか。私たちが最も知りたいのは、運命の因果関係でしょう。
 運命が何によって決まるかについては、前の章で見たように、神や前世によって決定されているとか、偶然でしかないなど、いろいろな答えがなされますが、「自分の行為」によって運命が決まるというのが、ブッダが発見した「縁起」の理法です。行為には必ず、それに応じた報いがある。これが「縁起」の法則だと、仏典には次のように説かれています。

「賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している」(『スッタニパータ』)

 行為と運命の関係については、「善因善果 悪因悪果」と教えられています。善いタネを蒔けば「幸福」という善い結果が現れ、悪いタネを蒔けば「不幸や災難」という悪果が現れるのです。

「蒔いた種に応じて果実を収穫する。
 善い行いをした人は、善い報いを得、
 悪い行いをした人は、悪い報いを得る。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)

 善いのも悪いのも、自分の運命はすべて自分の行為が生み出したものだということを、「自因自果」とか「自業自得」といわれます。

「人が何をしようとも、その報いが自分に起るのを見る。善いことを行った人は良い報いを見、悪いことを行った人は悪い報いを見る。みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば、自分が浄まる。」(『ウダーナヴァルガ』)

「鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところにみちびく。」(『ダンマパダ』)

「因果の道理」で教えられる行為と運命の関係は、「善因善果 悪因悪果 自因自果」とまとめられています。

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