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【第9章①】我々は善悪を知っているのか

 プラトンの『ゴルギアス』の中で、ソクラテスは、善い行いをすれば善い結果、悪い行いをすれば悪い結果が起きるという厳粛な法則があると主張します。一方、カリクレスは、善悪など人間が作り上げたルールに過ぎないと断じました。どちらが正しいか、理性で決着がつけられるのでしょうか。私たちの理性の限界を見極める作業から始めましょう。

「何が善で、何が悪かくらい、聞かなくても分かるよ」と、ほとんどの人は思っているでしょう。そんなことさえ分からなかったら、とても社会では生きてゆけないからです。しかし、私たちが「これは善、これは悪」と判断するのは、何か確実な根拠があってのことなのでしょうか。
 実は、私たちの道徳的な判断には、論理一貫した基準はありません。そういうことは、いろいろな事例から示すことができます。例えば、路面電車のブレーキが故障して、時速百キロで暴走しているとしましょう。このまま直進したら、前方の作業員5人が犠牲になります。しかし、もしあなたが線路を切り替えて、別の線路に電車を走らせれば、そちらには作業員が1人しかいないので、死者は1名ですみます。あなたは、切り替えレバーを引きますか?
 このように聞かれると、たいていの人は、1人の犠牲で5人の命を救う方を選びます。5人死ぬのと、1人死ぬのと、どちらの結果が望ましいか比較して、より多くの人が幸福になるような行動が「善」と考えるのです。こういう考え方は「功利主義」といいます。
 しかし、私たちは常に「功利主義」の立場を取るのではありません。先の暴走電車を止める手段が、橋の上から線路に歩行者を突き落として、ひき殺させることしかなかったとしましょう。歩行者1人を殺すことによって、5人を助けますか、と聞くと、ほとんどの人は「いくら5人助かるとはいえ、無関係の人を殺すのはイヤだ」と答えます。
「1人を犠牲にすれば5人助かる」という状況は変わらないのに、なぜ反対の考えになるのでしょうか。
 自分の手で殺すのは、突き落とす感触が残りそうでイヤだというのであれば、ボタン一つで線路に突き落とす機械があったら、どうでしょう。あなたはボタンを押しますか? たとえそうなったとしても、殺すのをためらうのではないでしょうか。しかし、そこに論理的な理由はありません。「イヤだからイヤ」という心しかないでしょう。

【第9章②】善悪の基準は何か

 1人を犠牲にして5人を救うことが、善に思えたり悪に思えたりするのは、私たちの善悪の基準が複数あるからです。
 何が善かを判断する基準の一つは、自分の行いの結果を比較する道です。無関係の1人を殺すのと、殺さないのとで、どちらが結果的に多くの人が幸福になるかを計算して、最大多数の最大幸福が得られる行為を「善」とみなすという、「功利主義」の考え方です。
 こういう「功利主義」で物事を考えることは、よくあることです。例えば、爆弾テロを未然に防ぐために、逮捕したグループの1人を拷問にかけることは許されるのか、考えてみましょう。拷問は悪いことに違いありませんが、早く口を割らせて爆弾の隠し場所を聞き出さないと、何百人の人が犠牲になります。それだけの人々を救うためならば、拷問も許されると思う人が多いでしょう。それは、確かに誰かを拷問にかけて苦しめることは悪いことですが、多くの死者が出ることと秤にかければ、仕方ないことだという考え方ですから、「功利主義」で考えているのです。
 しかし、テロリストが、どんな拷問にも耐えて、情報を漏らさなかったとします。そんな男でも、幼い娘を拷問にかければ白状させることができると仮定しましょう。他に自白させる方法が無かった場合に、あなたはテロリストの娘を拷問することに同意するでしょうか? こうなると「たとえ、どんな結果が得られるにせよ、無関係の人を犠牲にしてはならない」という気持ちが起こってくるのではないでしょうか。
「どんな理由があろうと、他人に残酷な苦しみを与えてはならない」という「義務」を、心の中に感じないでしょうか。実生活においては、私たちは「今、こうしたら、その結果どれくらい社会の役に立つだろうか」「こうするのと、しないのと、相手はどちらが幸せになるだろうか」などということを、いちいち計算する余裕はありません。だからたいていは、「決して人を殺してはならない」「どんなに困っても、盗んではならない」「たとえ誰かを幸福にするためであったとしても、そんな理由をつけて嘘はついてはならない」というような、「ダメなものはダメ」という「義務」に基づいて、行動しています。
 このように、善悪の基準が複数あるために、「功利主義」による計算と、自分の心から湧き上がる「義務」とが衝突した場合に、どちらを取るか葛藤が生じます。だから、私たちの善悪についての考え方は、論理一貫したものではなく、その都度その都度、都合の良いほうで考えている、根拠の薄いものなのです。

【第9章③】善悪は、どこから来たのか

 私たちの善悪の基準は、首尾一貫したものではありませんが、日常生活には支障をきたしません。そういう便利な考え方を、どうやって身につけたのでしょうか。道徳の系譜を、生命の誕生まで遡って考えてみましょう。
 地球が誕生したのは45億年前ですが、地球ができてまもなく、自分で自分のコピーを作るという、極めて稀な性質を持つ物体が現れました。そんなことは、「台風が鉄くずを巻き上げたらジェット機が完成した」ということ以上に、考えられないことですが、約38億年前、奇跡が起きたのです。この、自ら自分のコピーを増やす「自己複製子」は、ネズミ算式に増えていきました。
 ただ増殖するだけでなく、周りの物質を取り込んで、複雑さを増してゆき、やがて膜に囲まれた一個の細胞となりました。生命の誕生です。生物の誕生という奇跡は、一回しか起きなかったと考えられています。地球上の生物はすべて、共通した仕組みを持っているからです。この星の生命は皆、遡ればただ一つの祖先にたどり着く、同じ根を持つ枝葉なのです。
 生物とは、周りから栄養を取り込んで成長し、自分のコピーを作って増えていく物です。「生きる」とは分身を増やすことであり、「生き物」とは「自分のコピーを作る物」なのです。
 コピーを作るのが上手な「物」ほど、急速に仲間を増やします。かくて、いかに自分の複製を増やすかという、激しい生存競争の火ぶたが切って落とされました。地球の環境は、酸素が激減したり、氷河期になったり、隕石が落ちたりと、激しい変化を続けてきましたが、その都度、その条件のもとで自分のコピーを増やす能力に長けた生物だけが繁栄して、今日まで子孫を残すことができたのです。
「生き物」とは、「生きる物」であり、「自分のコピーを増やす物」です。人間も「生き物」の一種ですから、私たちの「肉体」は、子孫を残す競争を勝ち抜いた、洗練された構造になっています。実にうまく子孫を残せるような仕組みが、私たちの身体の随所にあるのです。
「善悪」も、子孫を残す「仕組み」の一つです。

【第9章④】「善い」=「都合が良い」

 生物は、自分のコピーを増やすことに全力をかける存在です。人間も例外ではありません。私たちが「これは善だ」と思うことは、実は「子孫を残すのに善だ」という場合が多いのです。
 このように言いますと、「清らかな良心」と、「自分の子どもを残したいという利己心」と、なんの関係があるのか、と思われるでしょう。では、人間が持つ最も尊い心である「愛」を例に考えてみましょう。
「愛」とは、誰かを特に大切に思うことです。他人を愛することは、善に間違いありません。しかし、その「愛」は、無償の愛でしょうか。人間は本当に、すべての人に平等に愛を注ぐことができるでしょうか。
 私たちが一番、深く愛するのは、他でもない、自分の子や孫ではないでしょうか。兄弟や姉妹、いとこも大事に思いますが、血のつながりが薄くなるにつれて、愛情も薄れてくるのではないでしょうか。何の血縁もない、遠くの国の人が地震で何十万人、亡くなったというニュースよりも、子どもが交通事故にあった方が一大事ではないでしょうか。
 自分と血のつながりが濃いほど、愛が深くなるのは、自分のコピーを増やすのに「都合が良い」からではないでしょうか。血を分け合った兄弟や親戚同士、助け合うのも、それらの人が無事に子孫を残せば、自分の血を引く子孫が増えることに繋がるからです。
 なぜ、私たちに「愛情」が芽ばえるのでしょうか。それは、清らかな心があるからではなく、子孫を残す仕組みがあるからではないでしょうか。
「別に、血のつながりが無くても、目の前で溺れている子どもがいれば、助けるよ。そういう善の心は、子孫を残すこととは無関係だ」と言われるかもしれません。しかし、そういう仕組みがあるのも、かつての人類が数十人程度の集落で暮らしていた時代の名残と考えられます。今日のような、大きな村や町ができる前は、人類は、いくつかの家族が集まる程度の、小さな集団で生活していました。そういう所では、目の前にいる人を助けることは、ほとんど自分の家族を助けることに等しかったのです。
 これは、動物でも見られることです。例えば、溺れた人間が、イルカの群れに助けられることがあります。これは決して、イルカが赤の他人に慈悲をかけたのではありません。イルカの群れの中に、もし溺れるイルカがいたら、それは家族ですから、助けなければなりません。だからイルカには、一緒に泳いでいる仲間を助ける性質があります。そこにちょうど、溺れた人間が紛れ込んだから、イルカは家族だと思って、助けただけなのです。
 イルカが、溺れた人間を、家族と間違えて助けるように、人間も、目の前で困っている人を、血族だと思って瞬間的に助ける動物的な本能があるのでしょう。
 ですから、目の前に溺れている子どもを、利害打算を超えて助けるからと行って、純粋な無私の愛を持っている証明にはなりません。

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