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知は力なり

フランシス・ベーコンは『ノヴム=オルガヌム』のなかで、こう言っています。

人間の知識と力とは合一する。原因が知られなければ、結果は生ぜられないからである。というのは、自然は服従することによってでなければ征服されないのであって、自然の考察において原因と認められるものが、作業においては規則の役目をするからである。

自然界の原因と結果の関係を知れば、自分の望む結果を獲るには、どんな原因が必要か、分かります。それが分かれば、自然を思い通りに支配することが出来る、とベーコンは主張します。

 これは、人間の運命にも、同じことが言えるでしょう。

 幸福という結果を獲るには、どんな原因が必要なのか分かれば、幸せになるタネを蒔いて、幸せのタネを咲かせることができます。

 不幸になる原因が分かれば、その原因を取り除いて、不幸や災難が来ないようにできます。

 何事も、原因を正しく知ることが大切です。

本当の哲学

 中島義道著『狂人三歩手前』には、「どうせ死ぬのに、なぜ生きる」という問いとの、真っ正面からの格闘が記されています。

「いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまう。 他人のために尽くしても、その人も死んでしまう。 日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、 やがて人類も地球もなくなるのに、 なぜ“いま”生きなければならないのか。 なぜ“いま”死んではならないのか。 私にはどうしてもわからない。 (中略) 強制収容所から必死の思いで生還しても、どうせ死ぬのだ。 広島で被爆しながら生きながらえても、どうせ死ぬのだ。 テロリストを撲滅しても、どうせ死ぬのだ。 構造改革を断行しても、どうせ死ぬのだ。 ひきこもりから抜け出しても、どうせ死ぬのだ。 自殺を思いとどまっても、どうせ死ぬのだ。

六歳のころ、私は自分がやがて死んでしまうことを
フッと身体の底から直感して大ショックを受け、
しばらく精神状態がおかしくなった。
あれから、もう五十年近く
『大変なことだ、大変なことだ……』
と呟きつつ暮らしている。
瞬間的に自分をごまかしても、
『どうせ死んでしまう』という声が
どこからともなく聞こえてくる。
(中略)
成熟するとは
『どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか』
という問いを忘れることであるのに、
五十代の半ばにしてますますこの問いに、
この問いだけにからめとられている。
同年齢の男女たちは、さしあたり“絶対的消滅”を忘れて
(忘れたふりをして)
眼前の仕事に携わっている。
この誌上でも、カンカンガクガクの議論をしている。
それが大人の“たしなみ”なのであろう。
だが、最近私はこの“たしなみ”が心底厭になってきた。
ぐれつつも所を弁えて、ときには“ほんとうのこと”を言いたくなってきた。
王様の衣装を褒めそやす群衆のただ中で、
ひとり『はだかだ!』と叫んだ男の子のように、
なりふりかわまず『どうせ死ぬんだ!』と叫びたくなってきたのである。


 やがて死ぬのに、なぜ生きる。この、全ての人がぶつかる問題を、ごまかさずに、正面から考えることこそが、真の哲学だと思わずにおれません。
 モンテーニュも「哲学を学ぶことは死ぬことを学ぶこと」と言っています。

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