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幸せになる六つの道①

1 他人には親切に
 ブッダの教えは、一言でいうと「悪をやめて善をしなさい」という教説です。
すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。(『ダンマパダ』183)
 だからブッダは生涯、「これは善だから努めなさい」「これも善だからやりなさい」と、いろいろな「善」を教え勧めました。それらの「善」すべてを、六つにブッダがまとめたものを、「六波羅蜜」とか「六度万行」といわれます。「波羅蜜」とは、サンスクリット語の「パラミッター(彼岸に至る)」に漢字をあてたもので、中国で「度」と翻訳されました。意味は「渡」と同じです。人間の一生は、苦しみの波が絶えず押し寄せる海のようなものです。人生の苦海を渡し、本当の幸福に至る六つの道を教えられたのが「六波羅蜜」です。
 その六つを、順番に説明しましょう。
「六波羅蜜」の第一に教えられているのは「布施」で、現代語では「親切」にあたります。
その行いが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を滅すであろう。(『ダンマパダ』376)
「布施」には、正しい教えを説く「法施」と、お金や物、無償の労働などを施す「財施」があります。食べ物や衣類、車などの「財」を与えれば、相手は喜びますが、それは生きている間の幸せです。真実を説けば、永遠の幸福を与えることができます。
食物を与えたならば、力を与えたことになる。衣裳を与えたならば、うるわしき容色を与えたことになる。乗物を与えたならば、安楽を与えたことになる。(中略)真理を説き教える人は、不死を与えたことになる。(『サンユッタ・ニカーヤ』1.1.5.2)
 だから「法施」は、どんな施しにも優ると説かれています。
教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。(『ダンマパダ』354)
 私たちは、ややもすると「自分さえ幸せになれれば、他はどうなってもよい」という考えに走りがちです。もらえる物は何でももらいますが、与えるとなると、執着が噴き上がってきます。将来の備えまで計算していたら、とても布施などできません。幾多の障害を乗り越え、自分の欲という強敵を倒した最も勇猛な戦士でなければ、他人に施すことはできないのです。
執着する心がなくて施し与える人は、幾百の障害にうち勝って、敵である物惜しみを圧倒して、勇士よりもさらに勇士であると、われは語る。(『ウダーナヴァルガ』30.10)
 欲から離れられない私たちが、執着に打ち勝って施しをすることは、それだけ大きな功徳(善)だから、「幸福になりたければ布施をしなさい」と、ブッダは常に勧めています。
 善い種を蒔いてこそ幸福になれることを、『雑法蔵経』には、こんな例えで教えられています。
 あるところに二人の貧しい兄弟が、三度の食事にも事欠くような暮らしをしていました。貧乏が身にしみた兄は、せめて一度でよいから金持ちの気分を味わいたいと、弟だけに畑仕事をさせ、自分は働きもせず神社にこもり、毘摩天に祈り続けました。勝手なことを願う兄を、なんとか説得しようと考えた毘摩天は、ある日のこと弟に姿を変え、兄が祈願している前に現れました。
「なぜ仕事をさぼって、こんな所へ来たのか」と叱る兄に、弟は「私も、神様にお願いして、金持ちになりたいのです」と答えました。兄は苛立ち、「お前は田畑を耕さず、種も蒔かずに金持ちになれると思うのか」と反問します。
 弟はすかさず、「種を蒔かないと、金持ちにはなれないのですか? 兄さんは、田んぼの手入れもせず、何の種も蒔いていないじゃないですか。私も、何もしないで金持ちになりたいのです」と言い返しました。兄が口ごもっていると、毘摩天が正体を現し、「お前が本当に金持ちになりたいのならば、今日から布施を励むがよい。お前が貧乏で苦しんでいるのは、他人に施しをしないからだ。善い種を蒔かずに、どうして善い結果が得られようか。布施をすれば、必ず恵まれるのだよ」と諭したといいます。
 ここで「田畑」に例えられたのは、施しをする相手です。農家の人が種を蒔くのを見て、「愚かな人だなぁ、あんなところに種を捨てて」と思う人はないでしょう。やがて芽が出て、実った作物は全て自分のものになるからです。「布施をしたら損だ、他人には一円もやらないほうが得だ」と考えるのは、「種を蒔かない方が収穫が増える」と思うのと同じではないでしょうか。まいた種は必ず生えます。布施をすれば、幸せという結果が、必ず布施した本人に現れるのだとブッダは説いています。
 ただし布施は、施す相手を慎重に選ばなければなりません。テロリストに資金援助をしたら、犯罪を助けることになります。布施を受けるべき人に布施をしなければ、善い種蒔きにはならないのです。
慎重に選択して与えることは、幸いな方(ブッダ)の称讃したもうところである。この生ある者どもの世において、施与を受けるべき人々に与えたならば、大いなる果報をもたらす。良い田畑にまかれた種子のようなものである(『サンユッタ・ニカーヤ』1.1.4.3)
 ブッダは布施をすべき相手として、尊敬すべき人、恩を受けた人、生活に困窮した気の毒な人を上げています。施しを受けるに相応しい、尊い人に布施をすれば、その功徳は計り知れないと教えられています。
すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたはその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることはできない。(『ダンマパダ』195-196)

幸せになる六つの道②

2 約束は必ず守る
「六波羅蜜」の第2は「持戒」です。「戒」とは、仏教で「こういうことは、してはならない」と定められた、生活上の規則をいいます。特に出家した修行僧には、多くの「戒」がありますが、それらの「戒」を固く守ることを「持戒」といいます。「持戒」は、「戒」を保って悟りを開こうとする、出家の人だけに関係するものではありません。在家の一般人であれば、「言行一致」に相当します。一度した約束は、必ず守るということです。
もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断固として実行せよ。行いの乱れた修行者は、いっそう多く塵をまき散らす。(『ダンマパダ』313)
『舊雜譬喩經』には、こんな譬喩が説かれています。ある国王が、城から狩りに出ようとしたところ、一人の修行者が訪れ、供養を求めました。王は何か布施をしたかったものの、時間が迫っていたので、帰るまで城で待ってもらうことにしました。ところが狩りの最中、王は獲物を夢中で追うあまり、家来を見失ってしまいます。一人さまよっていると、眼前に突然、餓えた鬼が現れました。
 今にも食い殺そうとする鬼に、王は懇願します。
「ちょっと待ってくれ。私は朝、修行者に布施をする約束をして、城で待たせているのだ。今、お前に食われてしまっては、その約束を果たせない。必ず戻ってくるから、しばらく時間をもらえないだろうか」
 鬼は笑って、「調子の良いことを言って、逃げるつもりだろう」と、飛びかかります。王は重ねて制し、「私が、恐ろしい鬼さえもだます不正直な人間なら、修行者との約束など、とっくに破っている」と訴えると、納得した鬼は王を解放しました。急いで城に帰った王は、修行者に宝物を布施して、太子に国の政治を託すと、約束通り鬼の前に戻りました。さすがの鬼も、その誠実さに打たれ、王を礼拝して殺さなかったといいます。
 この説話の後でブッダは、世俗の王でさえ、約束を死守しているのだから、仏道修行をする者は、なおさら戒律を堅持しなければならないと説いています。
 約束を必ず守る人は、周囲から信頼され、物にも恵まれることでしょう。「儲かる」という字は、「信用のある者へ」と書きます。信用は、何物にも優る財産です。成功する会社は、まず「信用」を得ることに投資すると言われるのも、当然でしょう。

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