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幸福になる六つの道③

3 怒りに怒りを返さない
 第3の「忍辱」とは、怒りの心を耐え忍ぶ「忍耐」のことです。
怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。(『ダンマパダ』223)
 腹を立てて非難攻撃してくる相手に、こちらまで怒りの炎で応戦したら、恨みが恨みを呼んで、周囲全てを焼き尽くさずにはおかないでしょう。
『雑宝蔵経』には、憤怒の恐ろしさを、こんな例えで説かれています。
 あるお手伝いの女性が、自分が仕える主人のために毎日、炒り豆を作っていました。ところがある日、彼女が目を話したすきに、家で飼われていた羊が、炒り豆を盗み食いしてしまったのです。何も知らずに主人に豆を出すと、量が減っていたので、ひどく叱られました。羊のせいで信用を失い、どうにも腹の虫がおさまりません。それから暇を見ては、羊を杖で叩きつけるようになりました。これには羊も腹を立て、怨みを晴らすチャンスを窺っていました。
 ある日、その女性が両手で火鉢を運んでいるのを見た羊は、杖を持っていない今が絶好の機会と思い、突進したからたまりません。あっという間に、火をひっくり返してしまいました。ところが、火が羊の背中に落ちたから大変です。家を飛び出した羊が、火をもみ消そうと、そこら中の壁に背中をこすりつけて回ったので、周囲の家々が火事になり、ついに村は全焼。大火は山にまで及び、五百匹の猿が逃げ場を失って死んだといいます。
 怒りの応酬が、どんな恐ろしい結果を招くかを例えた話です。夫が妻に怒れば、妻は使用人に八つ当たりし、使用人は無関係の子どもに不満をぶつけます。怒りの炎は、時間的にも空間的にも、どこまでも燃え広がっていくのです。
 ブッダが教えを説き、信奉者が増えるにつれて、旧来の宗教者はブッダを憎み、非難しました。ある日、バラモン教の若い男がどなり込んできて、ブッダに悪口雑言をわめき散らしました。
 黙って聞いていたブッダは、男が言い終わると、静かにたずねます。
「おまえは祝日に、肉親や親類の人たちを招待し、歓待することがあるか」
「そりゃ、あるさ」
「親族がそのとき、おまえの出した食べ物を食べなかったらどうするか」
「食わなければ、残るだけさ」
「私の前で悪口雑言ののしっても、私がそれを受けとらなければ、その罵詈雑言は、だれのものになるのか」
「いや、いくら受けとらなくとも、与えた以上は与えたのだ」
「いや、そういうのは与えたとは言えない」
「それなら、どういうのを受けとったといい、どういうのを受けとらないというのか」
「ののしられたとき、ののしり返し、怒りには怒りで報い、打てば打ち返す。闘いを挑めば闘い返す。それらは与えたものを受けとったというのだ。しかし、その反対に、なんとも思わないものは、与えたといっても受けとったのではないのだ」
「私は、ばか者でありました。どうぞ、お許しください」
 バラモンの若者は、落涙平伏し帰順したといいます。
 また、別のバラモンが押しかけ、野卑な荒々しい言葉で謗った時も、ブッダは沈黙し、何の応答もしませんでした。ブッダが返答に窮したと勘違いしたバラモンは、「汝は負けたのだ。私が勝ったのだ」と誇りました。
 ようやく口を開いたブッダは、こう諭します。
「愚かな者は、悪口を言って自分が勝ったと思う。しかし真の勝利は、よく忍耐することである。怒りに対して怒りを返さない者は、二つの勝利を得る。自己に打ち勝ち、他にも勝つ者なのだ」
 胸を打たれ、彼もまたブッダの弟子になったといいます。
「負けている人を弱しと思うなよ 忍ぶ心の強きゆえなり」
 怒りに勝って忍耐する人が、本当に強い人なのです。

幸福になる六つの道④

4 継続は力なり
 第4の「精進」とは、「努力」することです。
奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。(『ダンマパダ』168)
「継続は力なり」「雨だれ石をうがつ」といわれるように、小さなことでも根気よく続ければ、やがて大きな力となり、大事業を成し遂げることができます。
 たゆまぬ努力の大切さを、身をもって教えてくれた仏弟子が、チューラパンタカ(周利槃特)です。ブッダの弟子の中で最も愚鈍といわれ、自分の名前さえ覚えられない、生来の愚か者でした。一方、兄のマハーパンタカは、弟より先にブッダの弟子になっていましたが、生まれつき非常に賢く、教えをよく理解していました。
 マハーパンタカは、なんとか弟を一人前にしようと努めましたが、チューラパンタカときたら、わずか四句の言葉が、四か月かけても暗記できません。とうとう愛想をつかした兄は、弟を宿舎から追い出してしまいました。
 門の外で一人、大粒の涙をこぼすチューラパンタカに、優しく声をかけたのは、ブッダその人でした。
「なぜ、そんなに悲しむのか」
「お釈迦様……どうして私は、こんなばかに生まれたのでしょう」
 正直に一切を告白するチューラパンタカ。その頬を、熱い涙が濡らしました。
「悲しむ必要はない。愚かでありながら、自分は賢いと自惚れて、己の愚かさに気付いていない者こそ、本当の愚者なのだ。おまえは自己の愚かさを知っている。愚かさを知っている者は、愚者ではない。最もさとりに近い人なのだよ」
 ブッダはチューラパンタカを連れ帰ると、一本のほうきと「ちりを払わん、あかを除かん」の言葉を授けました。
 シュリハンドクは毎日、掃除をしながら、与えられた聖語を必死に覚えようとします。「ちりを払わん」を覚えると「あかを除かん」を忘れ、「あかを除かん」を覚えると「ちりを払わん」を忘れる。しかしチューラパンタカは、それを二十年間続けました。その間、一度だけ、ブッダからほめられたことがありました。
「おまえは、何年掃除しても上達しないが、上達しないことにくさらず、よく同じことを続ける。上達することも大切だが、根気よく同じことを続けることは、もっと大事だ。これは他の弟子にみられぬ殊勝なことだ」
 ブッダはチューラパンタカの、ひたむきな精進を評価されたのです。
 やがてチューラパンタカは、ちりやほこりは、あると思っているところばかりにあるのではなく、思ってもいなかったところに、意外にあるものだと気づきました。そして、「オレは愚かだと思っていたが、オレの気づかないところに、どれだけオレの愚かなところがあるか、わかったものではない」と驚き、ついに阿羅漢のさとりが開けたといいます。
 よき師、よき教えにあい、よく長期の努力精進に耐えた結実にほかなりません。

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